イエス様が十字架に付けられた時、二人の強盗も両脇に十字架に付けられました。そして、その一方の者が言いました。「お前は救い主だろー。救い主ならおれたちを救ってみろ。そして、この十字架から降ろしてくれ。そうしたら、お前を信じるから」と、彼は処刑から救われたい一心で悪態を吐きました。ところが、もう一方の者は、「何を 言ってるのだ。おれたちは、自分が犯した犯罪の故にこの裁きを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」そして、イエス様に向って「主よ、私は強盗を犯した罪人です。でも、あなたが天の御国の位いに着かれる時、わたしのような者もいたことを、心に覚えて下さい」とお願いしました。すると、イエス様は「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と仰ったのです。どうしてでしょうか? 人間は、もともと罪人として生まれてきました。罪を犯すことなど、親から教えられて育ったわけではありません。しかし、物心着いた時には、すでに心の中には、罪がありました。その罪が生まれながらにあったので、つい罪人の行動を取ってしまうのです。また言葉の過ちを犯すのです。まさに、人間は生まれながらに罪人です。煮ても焼いても食えない罪の塊です。ところが、絶対主は、考えられました。「罪人が、本当に罪人であることを認めた者たちに対して、『わたしは、 自分のひとり子イエスをこの地に遣わす。そして、イエスによって人間の罪の贖いをさせる。』だから、救い主であるキリストに望みを置き、『私は罪人です。』と正直に認めた者たちを救う」と絶対主は考えられたのです。ところが、強盗を犯しても、自分の罪を認めないばかりか、かえって逆切れして「おれを救ってみろ」と悪態を吐くのです。 罪人が逆切れしたら、救いはありません。この逆切れはクリスチャンであってもやります。自分の罪を指摘されると、顔付きを険しくしたり、むくれたり、反発したり、弁解したりして、「じゃー、どうすればいいの」と反抗してくるのです。クリスチャンは、「義人はいない。一人もいない」という主のみことばが心に響いて信じたはずです。罪人のままでは地獄だからです。なのに、未だに罪を指摘されて反発するのはどうしてでしょう。「怒られるのが嫌と思う心」とか「罪を認めるとプライドが傷付くので素直になれない」と言うなら、「罪人が裁かれて地獄に落される」ことをバカにしていることになります。もし、本気で罪人に裁きがあることを自覚したら、誰でもへり下るはずです。私たちの成すべきことは、心の中の罪は正直に認めて、外側の罪の責任は負っていくだけです。こんな最低限の事柄位い、当然ではないでしょうか? 罪人が救われるためのハードルは、極めて低いのです。罪を指摘されて、へり下れないのは、悪態を吐いている強盗と同じです。ですから、罪人が罪を認めることは当然ですから、へり下って行きましょう。
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