綺麗事の信仰とは、「一途な心」をもって主に従うことです。
それは、ジョージ・ミュラーさんの信仰の証しを通して知ることが出来ます。
彼は、「まず絶対主の国と、絶対主の義」を求めました。すなわち、綺麗事の信仰とは、
主が成し遂げて下さることを信じ切る忍耐にあります。人間にとって一番苦手なことは、
「忍耐して待つ」ことです。ですから、人は自分の行いで「手っ取り早く」結果を出そうと
するのです。結果を求め始めると、人は、「絶対主の国とその義」を、まず第一に求めること
が出来なくなります。それは、絶対主の手が動くのを、最後まで待つ忍耐がないからです。
そこで、人は我慢できなくなり、自分の行い、努力によって受け入れられようともがき出し
ます。しかし、自分の力に頼り、自分のやり方で事を進め、自分が中心となるなら、主の御心
にかなった結果を出すことができません。人の行いは、油で真黒に汚れた手で、お茶碗を
洗うようなものです。罪人の行いは、所詮「付け焼刃」であって役に立ちません。だから、
どこまでも、「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」という信仰に立つことです。
そこで、もし主の御心によって示されたことならば、何が何でも主の役に立ちたいと思って、
一生懸命するのです。この行いは、自分の力で結果を出そうとすることではありません。
私たちの行いは、自分が認めてもらうためのものではなく、主の御心を行う行いであるべき
です。その努力なら、無駄になることはありません。この行いの動機が、私たちの意識で
大切なことです。
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