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2015年 NO.513




罪人としての自覚


  

 イスラエルの王であったダビデは、自分の家来の妻バテ・シェバを自分のものとし、バテ

シェバの夫ウリヤを戦いの最前線に出して戦死させました。そして、ダビデは、その罪の

責任を葬り去ろうとした時、預言者ナタンがヤハウェから遣わされ、「一人の富める卑怯な

男が、貧しい男から小羊を取り上げ調理した話」を聞かせました。その時、ダビデ王は

「そんなことをした男は、死刑だ」と断罪しました。しかし、預言者は王に、「あなたが

その男です」と語ってダビデの罪を暴いたのです。

 聖書には、「人を裁くあなたは、いったい何者ですか。・・・裁くあなたも同じことを行って

いる」(ロマ14:4、2:1)とあります。人は、自分の罪の責任を棚上げして、他人の

所為にし、人の罪は裁きます。それが、出来るのは、自分の心にバリアを張って、自分の罪に

関しては心の中に入れないようにしているからです。
なぜなら、それを心に入れたら、自分は

敗北し、屈することになるからです。そして、屈したら生きて行けないと勝手な恐れを持って

いるからです。人は、心にバリアを張ることを無意識にしています。そして、自分は罪人では

ないと自分の責任を葬り去ります。
この心のバリアこそ、私たちが砕かなければなりません。

それをしなければ、罪人としての自覚は頭だけのものとなり、心の中に入って来ません。

すると、イエスキリストの贖いの死が、いつまでも自分の救いとならないのです。イエス様の

十字架の苦しみは、「この罪人の私の為であった」ことが心底分かったときに、イエス様と

繋がるのです。キリストの死は、単なる象徴ではありません。地獄の裁きの中に落とされる、

「罪人の私自身」の為だったからです
ですから、心のバリアを砕いて、罪の責めは、

当然自分の報いとして受けるべきです。罪に屈した人こそ、ダビデ王の真実な心の証しです

(詩51篇)。
 絶対主は、罪人が罪人にすぎないことを認める時、受け入れて下さるのです。


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