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2015年8月16日


絶対主の方法で生きる


ヨハネの福音書11:1~46




(起)「自分の方法ではなく、絶対主の方法で生きて行く」ということについて、学んで

いきたいと思います。


(承) さて、この箇所は、一度死んだラザロをイエス様が甦らせたという記事ですが、実は

イエス様は、「ラザロが病気で苦しんでいる」という話を聞いた時、すぐにそこへ行こうとは

なさらず、しばらく経って、ラザロが死んだということがはっきりしてから、その場所へ向か

われました。それは、「死んだラザロを甦らせて、絶対主の栄光を表わす」と決めておられた

からです。そして、ベタニヤの村に行くと、姉のマルタがやって来て言いました。「主よ。もし

あなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。彼女は、イエス様

が弟を愛して下さって居たのですから、「もう少し早くおいで下さったなら、ラザロは死なずに

済んだのです」という気持ちを持っていました。そのあと、妹マリヤもイエス様のところに来て、

泣きながら同じように言いました。彼女たちの思いの中には、「死んでしまったら、もう終わり

だ」という考え、すなわち、「この世の常識の範囲内で起こることしか信じれない」という心が

あったのです。しかし、マルタは22節で、「
今でも、あなたが絶対主に願い求めるなら、

どんなことでも絶対主は叶えて下さることを、私は 知っています」と言いました。

この
「今でも」という心があったのなら、「イエス様は、ヤイロの娘のように生き返らせて

下さる」と、目を向けても良かったはずです。
しかし、その期待を持たなかったのは、どこまで

も信じることは、人間が期待できる常識の枠の中でのことで、この世の常識を越えたイエス様の

方法を信じ受け入れることが出来なかったのです。


(転) さて、私たちも、この地上に住んでいますから、「地上で考えられる方法が残されて

いれば、叶えられる」と信じます。 しかし、「この世の常識では不可能だ」と分かると、

信じる期待を失います。ですから、いつも、助けてもらう方法まで自分で決め、「こういう方法

で主が応えて下されば、この祈りは叶えられるな」と、自分勝手な常識の中でイメージを持ち

ます。そして、そのイメージの中で絶対主が応えて下さることを期待し、私たちは「私の考え

通りに叶えてほしい」と願うのです。しかし、その考えは間違っています。それは、被造物で

ありながら、絶対主を自分のしもべにすることだからです。私たちは絶対主によって造られた

のですから、「どうか絶対主の方法で行って下さい。私たちはその道に従います」という心を

持つべきです。ジョージ・ミュラーさんは、まさにその心を持って、生涯を全うした人です。

彼が孤児を育てていく時、「自分の考え、自分の力で育てて行ったのではなく、「孤児の父は

絶対主だ」と聖書にある以上、「絶対主によって、絶対主のお金で、また絶対主の方法で孤児

を育ててもらおう」と決め、どんなことがあっても人に頼らず、自分に頼らず、どこまでも

絶対主に頼っていく生き方を貫き通したのです。私たちも
この生き方をしていくためには、

「何が何でも、絶対主に頼っていくのだ」と決め込んだ、自分の意志決定が必要です
私たちは

今、その意志決定を求められています。これからの私たちの働きは、ミュラーさんの働きよりも、

もっと大きな働きをして行くことになります。それなら、たとえ困難があったとしても、絶対主

がして下さると最後まで信じて、自分勝手で手っ取り早い方法には頼らず、最後まで、「絶対主

の御手を信じて待つ」という生き方をして行くべきです。その心を持つなら、主の働きに限界は

ありません。例えば、使徒のように、たとえ悪霊の追い出しをする場合でも、「これ位のことは

できる。でもこれは難しいからできない」と言うようなことはありません。どんなに相手が

強くてもできるのです。なぜなら、それは自分の力に頼ってやる働きではなく、どこまでも

絶対主がして下さる働きだからです。自分の力には限界がありますが、絶対主の力に限界はあり

ません。

(結) ですから、私たちは、自分の思い通り、自分の思い通りに願いに答えてもらおうとする

心を捨て、「絶対主の方法で生きる」と、心を定めて行きましょう。そして、
ミュラーさんの

ように、「絶対主が手を動かして下さるまで、自分は動きません。どこまでも絶対主の御心を

待ちます」という決断をしましょう。
その決断をした瞬間、私たちは、「これが本当のへりく

だりだ」と気づくでしょう。たとえ、主の取り扱いが、自分にとって「嫌だな」と思うことが

あったとしても、自分自身が上に立って、絶対主やイエス様を否定するようなことを絶対にして

はいけません。自分の考えを正しいとするのではなく、絶対主の側に立って考えて行った時に、

「あーそうか」と分かってくるのです。このへりくだりの心を持って、絶対主の方法で為される

ことを、忍耐して行っていくのです。どうか、一人一人がこの生き方に同意し、「自分に頼らな

い、人に頼らない、ただ絶対主の方法で生きて行く」と、自分の意志で決断して行きましょう。

絶対主はそのような者たちを待っておられるのです。

 


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