第Ⅱコリント7:1~13
(起)「砕かれた、悔いた心」について学んでいきたいと思います。
(承) さて、このコリントの教会は、「聖霊のバプテスマ」を授けられていた教会でしたが、
霊の一致がなく、逆に、皆が身勝手な肉の思いに陥っており、教会の中にいろいろな問題が起こって
いました。そのことを知ったパウロさんは悲しみ、「あなたたちは間違っている」と、かなり厳しい
(第一の書簡)手紙を書き送りました。すると、異邦人の習慣の中で生きて来た彼らは「そこまで
言われたら、もうやっていけない」と、反発する者達も起って来ました。しかし、彼らの多くは、
パウロの手紙を通して絶対主の御心に添った悲しみの中で、悔い改めたのです。だから、パウロ
さんは第二の手紙で、「あの手紙を書いたことを、私は今は喜んでいる」と言っています。
これは、私たちにも言えることです。なぜなら、私たちは、彼らと同じ肉を持った罪人であり、
この肉の性質は、この世を去る時まで消え去ることはありません。だから、たとえ「クリスチャン」
と言えども、罪深い人間の気質や、親から受け継いだ遺伝的な肉の性質は、この地上にいる限りなく
なりません。その証拠に、私たちはこの罪の性質をいつも表してしまいます。罪を犯さない人間など、
この地上にはいません。では、このような罪の性質の中にある私たちは、どのようにして生きて
いけばいいのでしょうか。それは、一生涯、この地上にあっては、罪の責めは負い続け、悔い改めて
行かなければばらないということです。悔い改めとは、「二度と罪を犯さない人間になる」という
意味ではありません。そうではなく、遜って「罪に対する報いを受けて、責任を取って行く」という
ことです。罪の責任逃れや、罪を棚上げにしていくことは出来ません。ですから、まず心の本心から
「自分が悪かった」と認めて行くことです。
(転) ではここで、この悔い改めについて書かれている旧約聖書の箇所(詩篇51篇)を見て
行きたいと思います。この詩篇は、ダビデさんの罪の葛藤が表わされています。彼は、自分の家来
ウリヤの妻バテ・シェバを引き込み、自分のものとして、邪魔になった夫ウリヤを殺すという罪を
犯しました。そこへ、預言者ナタンが絶対主から遣わされ、「富める人間が、貧しい者から小羊を
取り上げ、それを屠って食べた」という話をしました。その話を聞いたダビデは、「ヤハウェは
生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」と言って怒りました。そこで、ナタンは「あなたが
その男です。」と言って、ダビデの罪を断罪しました。そこで、ダビデは祈りました。
「絶対主よ。・・・私のそむきの罪をぬぐい去ってください。・・・どうか私の咎を、私から
全く洗い去り、私の罪から私を清めてください」(51:1~2)と。私たちも、罪を犯した後、
このような祈りをしがちです。しかし、この祈りは決して叶えられることはありません。
この身勝手な祈りは絶対主の御心にかないません。これは、「私の罪の性質を取り去って、罪を
犯さないようにして下さい」と言っているのと同じです。だから、罪人は、自分自身の罪の責任と、
罪からの苦しみを負うのは当然です。しかし、私たちはそれを「負いたくない。苦しみたくない」と
思って、自分の罪を棚上げにし、このような祈りをするのです。また10節でも、「私にきよい心を
造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と言って、「今までの罪深い自分を
帳消しにし、新しくしてほしい」と願っています。こんな祈りも決して叶えられません。そこで
ダビデは、突然16節から変わります。「まことに、あなたは生けにえを喜ばれません。全焼の
生けにえを、望まれません。」とあるように、私たちがいくら絶対主の前に生けにえの子羊を持って
行っても、平安はありません。では、私たちが持って行くものは何でしょうか。それは、17節に
あるように、「砕かれ魂しい。砕かれた悔いた心」です。絶対主の前に持って行ける生けにえは、
子羊でも子牛でもなく、「自分の砕かれた心」です。私たちが、罪を犯した後でなんだかんだと
言っても、絶対主の前には一つも通りません。自分が犯した罪を赦してもらうために持って行く、
全焼のいけにえさえも受け入れられません。私が持って行けるのは、本当に「罪深くて、醜くて、
どうにもならない自分しかありません」という心です。そのことを本当に悟り、心の中に入れて
認めた者には、認めた者の行動があります。ダビデは、その行動をとりました。彼にはバテシバの
間に生れた赤ちゃんがいましたので、「この子の命だけは取らないで下さい」と、断食して祈って
いました。しかし、赤ちゃんの命は絶対主によって取り去られました。その時彼は、「あぁそうか。
ダメなものはダメなんだ。そんな簡単に罪を帳消しにはされない。自分の犯した罪の責任、
悲しみは、現実として負わなければならないんだ」ということを悟り、立ち上がって食事をし、
赤ちゃんの葬儀を行いました。もう罪から逃げることは出来ないと分かったからです。
(結) 私たちも、罪を犯した後でいくら後悔しても、また「罪を赦して下さい」と祈っても、
何の意味もありません。罪は罪ですから、自分の犯した地上の罪の報いは受けなければなりません。
そして、死ぬまで、罪人である自分自身から逃げることは出来ません。だから、ごまかさずに、
罪人である自分を認め、その前提の上でイエス様を見ようではありませんか。人間は100%
罪人で、自分の力ではどうにもならない者です。だから、イエス様が来て下さったのです。
イエス様は、10%正しい人間のために、十字架に架かって下さったのではありません。もし、
正しいところがあるなら、その正しさから、自分を変えて、義人になったらいいのです。
しかし、それが出来るなら、イエス様は地上に来る必要はありませんでした。だから、罪を犯して
「なんとか罪の苦しみから解放されたい」と思っても、無駄です。そんな都合のいい話はありま
せん。私たちは、罪人であるという事実を認めながら、この生涯を閉じていくのです。
そして、贖いの故に天に引き上げていただいた時、「私たちは罪しかありませんでした。本当に
すみませんでした」と頭を下げ、同時に「ただ、イエス様のお蔭でした。ありがとうございました」
と言って、ただへりくだって御国での交わりに加えていただくのです。この恵みこそ感謝なのです。
この「砕かれた、悔いし心」と、イエス様の贖いがなければ、御国には入れてもらえません。
このことを、心の中で悟り受け入れて行きましょう。 |
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