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2015年3月1日    



砕かれた、悔いた心



 

第Ⅱコリント7:1~13


(起)「砕かれた、悔いた心」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、このコリントの教会は、「聖霊のバプテスマ」を授けられていた教会でしたが、

霊の一致がなく、逆に、皆が身勝手な肉の思いに陥っており、教会の中にいろいろな問題が起こって

いました。そのことを知ったパウロさんは悲しみ、「あなたたちは間違っている」と、かなり厳しい

(第一の書簡)手紙を書き送りました。すると、異邦人の習慣の中で生きて来た彼らは「そこまで

言われたら、もうやっていけない」と、反発する者達も起って来ました。しかし、彼らの多くは、

パウロの手紙を通して
絶対主の御心に添った悲しみの中で、悔い改めたのです。だから、パウロ

さんは第二の手紙で、「あの手紙を書いたことを、私は今は喜んでいる」と言っています。

  これは、私たちにも言えることです。なぜなら、私たちは、彼らと同じ肉を持った罪人であり、

この肉の性質は、この世を去る時まで消え去ることはありません。だから、たとえ「クリスチャン」

と言えども、罪深い人間の気質や、親から受け継いだ遺伝的な肉の性質は、この地上にいる限りなく

なりません。その証拠に、私たちはこの罪の性質をいつも表してしまいます。罪を犯さない人間など、

この地上にはいません。では、このような罪の性質の中にある私たちは、どのようにして生きて

いけばいいのでしょうか。それは、
一生涯、この地上にあっては、罪の責めは負い続け、悔い改めて

行かなければばらない
ということです。悔い改めとは、「二度と罪を犯さない人間になる」という

意味ではありません。
そうではなく、遜って「罪に対する報いを受けて、責任を取って行く」という

ことです。
罪の責任逃れや、罪を棚上げにしていくことは出来ません。ですから、まず心の本心から

「自分が悪かった」と認めて行くことです。


(転) ではここで、この悔い改めについて書かれている旧約聖書の箇所(詩篇51篇)を見て

行きたいと思います。この詩篇は、ダビデさんの罪の葛藤が表わされています。彼は、自分の家来

ウリヤの妻バテ・シェバを引き込み、自分のものとして、邪魔になった夫ウリヤを殺すという罪を

犯しました。そこへ、預言者ナタンが絶対主から遣わされ、「富める人間が、貧しい者から小羊を

取り上げ、それを屠って食べた」という話をしました。その話を聞いたダビデは、「ヤハウェは

生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」と言って怒りました。そこで、ナタンは「あなたが

その男です。」と言って、ダビデの罪を断罪しました。そこで、ダビデは祈りました。

「絶対主よ。・・・私のそむきの罪をぬぐい去ってください。・・・どうか私の咎を、私から

全く洗い去り、私の罪から私を清めてください」(51:1~2)と。私たちも、罪を犯した後、

このような祈りをしがちです。しかし、この祈りは決して叶えられることはありません。

この身勝手な祈りは絶対主の御心にかないません。これは、「私の罪の性質を取り去って、罪を

犯さないようにして下さい」と言っているのと同じです。だから、罪人は、自分自身の罪の責任と、

罪からの苦しみを負うのは当然です。しかし、私たちはそれを「負いたくない。苦しみたくない」と

思って、自分の罪を棚上げにし、このような祈りをするのです。また10節でも、「私にきよい心を

造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と言って、「今までの罪深い自分を

帳消しにし、新しくしてほしい」と願っています。こんな祈りも決して叶えられません。そこで

ダビデは、突然16節から変わります。「まことに、あなたは生けにえを喜ばれません。全焼の

生けにえを、望まれません。」とあるように、私たちがいくら絶対主の前に生けにえの子羊を持って

行っても、平安はありません。では、私たちが持って行くものは何でしょうか。それは、17節に

あるように、「砕かれ魂しい。砕かれた悔いた心」です。
絶対主の前に持って行ける生けにえは、

子羊でも子牛でもなく、
「自分の砕かれた心」です。私たちが、罪を犯した後でなんだかんだと

言っても、絶対主の前には一つも通りません。自分が犯した罪を赦してもらうために持って行く、

全焼のいけにえさえも受け入れられません。私が持って行けるのは、本当に「罪深くて、醜くて、

どうにもならない自分しかありません」という心です。そのことを本当に悟り、心の中に入れて

認めた者には、認めた者の行動があります。ダビデは、その行動をとりました。彼にはバテシバの

間に生れた赤ちゃんがいましたので、「この子の命だけは取らないで下さい」と、断食して祈って

いました。しかし、赤ちゃんの命は絶対主によって取り去られました。その時彼は、「あぁそうか。

ダメなものはダメなんだ。そんな簡単に罪を帳消しにはされない。自分の犯した罪の責任、

悲しみは、現実として負わなければならないんだ」ということを悟り、立ち上がって食事をし、

赤ちゃんの葬儀を行いました。
もう罪から逃げることは出来ないと分かったからです。

(結) 私たちも、罪を犯した後でいくら後悔しても、また「罪を赦して下さい」と祈っても、

何の意味もありません。罪は罪ですから、自分の犯した地上の罪の報いは受けなければなりません。

そして、死ぬまで、罪人である自分自身から逃げることは出来ません。だから、
ごまかさずに、

罪人である自分を認め、その前提の上でイエス様を見ようではありませんか。人間は100%

罪人で、自分の力ではどうにもならない者です。だから、イエス様が来て下さったのです。


イエス様は、10%正しい人間のために、十字架に架かって下さったのではありません。もし、

正しいところがあるなら、その正しさから、自分を変えて、義人になったらいいのです。

しかし、それが出来るなら、イエス様は地上に来る必要はありませんでした。だから、罪を犯して

「なんとか罪の苦しみから解放されたい」と思っても、無駄です。そんな都合のいい話はありま

せん。私たちは、罪人であるという事実を認めながら、この生涯を閉じていくのです。

そして、贖いの故に天に引き上げていただいた時、「私たちは罪しかありませんでした。本当に

すみませんでした」と頭を下げ、同時に「ただ、イエス様のお蔭でした。ありがとうございました」

と言って、ただへりくだって御国での交わりに加えていただくのです。この恵みこそ感謝なのです。

この「砕かれた、悔いし心」と、イエス様の贖いがなければ、御国には入れてもらえません。

このことを、心の中で悟り受け入れて行きましょう。
 


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