第Ⅰペテロ1:10~25
(起)「心のバリアを砕いて行く」ことについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちは普段、聖書を読んで行くと、「分からない」ところがたくさん出てきます。
すると、自分の分らないところは飛ばして、それがたとえ大事な真理であっても、心に留めようと
しません。聖書の内容は、絶対主の側から書かれた完全なものであっても、自分が理解できないと
思うとその御言葉を無視して心の中に入れようとしないのです。そのような反発精神を、人間は
皆持っています。例えば、「義人はいない。一人もいない。」という御言葉があります。
私たちは、頭では「そうか」と思いますが、「だから何なの?」と言って心に受け入れようとは
しません。なぜなら、「自分は100%罪人で、何も出来ない人間で、生まれた時からダメな者だ」
と受け入れたら、生きていけないからです。だから、聖書のことばのほとんど聞き流して、
心の中に入れようとはしません。これが現実です。人間は皆、分らないことは、当たり前のように
反発します。こうして、無意識に心にバリアを張っています。そして、たとえ自分が駄目な者だ
と思っても、「私は私なりにやろうとしているのだから」と言って、遜ることはしません。だから、
私たちは、この御言葉を書いたペテロさんやパウロさんの心を、そのまま自分の心に入れているか
どうかは分りません。「頭で分る」事と、「心で分る」事は違いますから。多くの人は、頭で
分っているだけで、心の中では分かっていないのです。
(転) では、イエス様の救いについてはどうでしょうか。私たちは、「こんな罪人のために、
イエス様が死んで下さった。だから、私たちは救われ、生きることが出来るようにされた」と、
言葉ではさらっと言ってのけます。しかし、本当に心で理解出来ているのでしょうか。
ロマ書8:3を見ると、「・・・御子を罪の肉の姿で遣わし~」とあるように、イエス様は絶対主の
御子ですが、マリヤから生まれることによって、私たちと同じ罪深い肉を負わされました。
しかし、イエス様は、律法を全うし、贖いを完成するために、罪深い肉を持ちつつ、その肉を
コントロールして、生涯に渡って、「一度も罪を犯さず、その口には何の偽りもありませんでした。
また、たとえ罵られても、罵り返さず、苦しめられても、脅かすことをされませんでした」
(第Ⅰペテロ2:22~23)。だから、イエス様は、生まれた時から33年間、罪を犯さず、
その33年の中でたった一度でも反発したり、相手に対してムカついた気持ちを表わすことはな
かったのです。それは、大変なことです。私たちなら一日たりとも持ちません。しかし、イエス様が
それをしてしまったら、その時点で贖い主となることは出来ませんでした。だから、それは全部
私たちのためにされたことです。だから、イエス様はどんなことがあっても、自分をコントロール
し、耐えていかれたのです。道行く人たちから、「絶対主の子なら、自分を救ってみろ。十字架から
降りて来い」とバカにされても、「彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」
と言って、最後の最後まで、イエス様はその歩みを通されました。それは誰のためですか?
罪深い私たちのためではありませんか。このイエス様がして下さったことは、本当にすごい努力
の賜物です。十字架は、ただの象徴ではありません。そのことが分かったら、私たちは、わずか
ばかりの自分の義を立てて、「なんとか正しい生き方をして、この世で認められる人間にならな
ければならない」と、粋がるのは滑稽(こっけい)です。私たちは、もともと本質的に100%
罪人なのです。そのことを本当に心の中に入れたなら、確かに「死しかない者だ」と分ります。
でも、そんな私たち自身の贖いが、イエス様によってなされたのなら、そこで生きていくことが
出来ます。「私たちの拠って立つところが、ここにあった」ということです。だから、もう粋がって
心のバリア張っている必要はありません。それを砕いて、罪人であるという事実を、正直に心の中
に入れるべきです。また、罪人が怒られたら、怒られたままを自分の心の中に入れるべきです。
その心のバリアを砕くことは、私たちがこの世を去る時まで、一生涯やり続けていくのです。
それは、永遠御国に繋がっていくことだからです。
(結) ですから、聖書の御言葉も、「分からない」からと言って心にバリアを張り、そのまま
受け留めない姿勢は間違っています。今日お読みしました、第Ⅰペテロ1:15には、「あなた方
を召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者とされ
なさい。」とあります。私たちは、「自分が聖なる者となるなんて、とても出来ません」と言って、
この御言葉に対して反発し、退けようとします。しかし、反発してはいけません。聖書にそう書いて
あるのですから、「聖なる者となるべきだ」と、バリアを砕いて心の中に入れていくべきです。
そうすれば、その心の真理が分かるように、私たちの心の中に絶対主が教えて下さるでしょう。
ペテロさんは、聖霊のバプテスマを受けていました。だから、今の私たちの心には分からない
ことが、彼の心の中に入っていたのです。そして、聖霊様を通して絶対主の意向を聞いた時、
「あぁ、その通りだ」と思えたのです。だから、わたしたちは、「分る分らない」ではなく、
彼がこのように書いているのですから、分るまで反発せず、へりくだって心に留めておくべきです。
すると、今まではよく分からなかった御言葉の意味も、分かるようになってくるのです。
どうか、この希望を絶対主に向けようではありませんか。そして、常に「心のバリアを砕き
続けて行こう」ではありませんか。この謙遜は大事な真理です。 |
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