(起) 今朝は、「天からか?人からか?というイエス様の問いかけに対して、自分自身を天から見ていく」ことについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、イエス様は、宮の中で金儲けをしている、両替人や鳩を売る者たちを見て、非常に嫌悪感を持たれ、彼らを宮から追い出されました。すると、それを見た祭司長、長老たちが、「何の権威によってそんなことをするのか」と言って、イエス様に歯向かって行きました。そこでイエス様は、「わたしも一つ質問をするので、あなた方がそれに答えたら、わたしも話しましょう」と言われ、「ヨハネのバプテスマはどこから来たのですか。天からですか。それとも人からですか」と聞かれました。このヨハネは、荒野から出て来て、「天の御国は近づいた。だから悔い改めなさい」と人々に語っていた人です。そして、その話を聞いた多くの群衆は、彼の所に行き、自分の罪を告白して、ヨハネからバプテスマを受けました。それは、多くの人々が、「この人は預言者だ」と認めていたからです。預言者とは、絶対主から言葉を預かって、絶対主の権威によって語る者ですから、「ヨハネの権威は人から来たものではなく、天から来たものだ」ということを、人々は認めていたのです。だから、この祭司長、長老たちも、この人々と同じように、「ヨハネのバプテスマは天からです」と認めてそのように言えば、イエス様は、「わたしの権威も、人から与えられたものではなく、天から与えられたものです」と答えることが出来たでしょう。ところが、彼らは答えようとしなかったので、イエス様も彼らに話されませんでした。
(転) ではここで、「私たち自身を、天から見るか、人から見るか」というところに焦点を合わせて考えて行きたいと思います。もし、私たち自身を、天(絶対主の目)から見たならば、自分は絶対主の前に絶対的に無条件で罪人だということが分かるはずです。「人と比べて自分は罪人であるとか、罪人でないとか」という相対的なことではなく、絶対主の目から見た時には、「自分は生まれながらに罪人で、何も出来ない、何の能力もない者だ」ということが見えてきます。すると、自分が罪人であることを自覚した人たちは、すべてを、何もないところから始めようとします。要するに、罪人である自分に頼っても罪しか出てきませんから、クリスチャンなら、イエス様に頼って、一つ一つのことを祈りの中で、一生懸命やって行こうとするはずです。もし、その中で一つ二つ出来たなら、「主よ、感謝です」と絶対主に感謝し、それを自分自身の誇りとするのではなく、へりくだって主の助けを感謝することでしょう。絶対主は、その姿勢をもって歩む者を、喜んで受け入れてくださるのです。ところが、この世の中(人)の見方は違います。私たちは小さい頃から学校に通い、学校での成績によって、「この子は何点、あの子は何点」と評価されます。それによって能力が測られ、「あの子は出来る子、あの子は出来ない子」というレッテルを貼られるのです。そして、出来る子は「褒められ」、出来ない子は「軽んじられる」という世界の中で、私たちは育って来ました。そんな中で、いわゆる出来る子は、自分の能力は自分が生まれ持っている能力だから、自分のものだと誇り、出来ない子は、自分は生まれながらに出来ない子だと自分を卑下して、「馬鹿にされるのは嫌だ。恥をかくのは嫌だ」と言って、自己嫌悪の中で生きて行こうとするのです。ところが、よく考えて見て下さい。私たちが生まれつき持っている能力は、自分で手にしたものではありません。これは、私たちを生かして下さった絶対主が、それぞれに与えられたものです。だから、私たちはその能力を誇ってはいけません。逆に、持っていない能力の故に自分自身を卑下し、「自分はダメだ。あれをしてもだめ、これをしてもだめ」と言って、何もやらずに自分をただ守って行くのも間違っています。というのも、能力は、学校だけで測られるものではなく、人間として生きて行く中での分業の能力です。だから、能力の見方は、天(絶対主)からの見方をするべきです。私たちは、人間社会という井戸の中だけで考えようとします。しかし、人の命は、明らかに絶対主によって創られたものです。ということは、私たちは自分を、人の目で見るのではなく、天の目(絶対主)で見るべきです。こうして、絶対主の目から自分自身を見たならば、私たちは罪人で、能力も何もないゼロの者なのですが、その事実を認めつつ、天からの目で一つ一つ主に頼ってやって行くなら、「主の助けの中で、これが出来た。感謝します」という心を持って歩めるのです。絶対主はその心を喜ばれ、ご自分の働きに使いたいと願っておられるのです。
(結) ですから、私たちにとって一番大切なことは、「能力を持っていようが持っていまいが、すべての人間が罪人である」という、天からの見方をしていくことです。今までは、いつも人と見比べて、「あの人より自分の方が出来る、出来ない」、「あの人より自分の方が善人だとか、悪人だとか」という、相対的な見方をしていました。それは間違っています。天から見たら、私たちは絶対的に罪人であり、誇れるものなんて一つもないゼロの者です。そこで、「ゼロである自分を認めたくない。恥をかきたくない」という思いが、私たちを歪ませてしまうのです。しかし、恥をかいても、かかなくても、私たちは元々絶対主の前に真っ黒な罪人です。このことは、天から見ればすぐに分かる、当たり前のことです。私たちは、人の前に生きているのではありません。絶対主の前に生きているのです。だから、人と競争して、人と比べて物事を見ていくのではなく、絶対主の前にイエス様を頼って全力で努力していくのです。こうして、常に天から物事を見て、この地上を歩んで行くのです。そして、天から見て自分がどういう者であるかを理解し、絶対主の前に純粋な心を持って、生きて行こうではありませんか。
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