『他人から「認められ、崇められる」
ことを求める願望』
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私たちが主に求めている聖霊の力は、何の為でしょうか?
「伝道するために強い心を持ちたい。証しをするために強い信仰を持ちたい。」と私たち
の心は叫びます。しかし、「伝道して認められたい。大胆に証しをして崇められたい」
という願望が、心の底から叫んでいないでしょうか?
その願望が、聖霊の力を求める動機になっていては、聖霊の油注ぎはありません。
又、「自分の性格が変えられたい。弱い自分の心を強くされたい」という願望が聖霊の
バプテスマを求める動機になっていないでしょうか。もし、その色気が心の底にあるなら、
聖霊の油注ぎは与えられないでしょう。なぜなら、その色気は、サタンが絶対主に抱いて
「絶対主の星々のはるか上に私の王座を上げ・・・いと高き方のようになろう。」
とサタンが傲慢になり、自分は認められたい、崇められたい」という願望の故に地に
落された罪の根だからです。ですから、その思いこそが人の罪の根源であり、人の心の
底にみな受け継いでいるサタンからの悪しき願望なのです。それならば、即座に私たち
の心から追い出して、そんな汚れた願望など持つ必要はないと決断すべきではない
でしょうか。私たちは、罪人ですから、人に認められることも出来ませんし、まして
崇められることなど願う立場にもありません。ならば、この肉の願望を持つことを
「止めとこう」と、きっぱりサヨナラしようではありませんか。
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