|
|
||||||||||||
2014年 NO.492 |
『弱さの中の努力』 |
人間はアダムの子孫、すなわち罪人の子孫です。ですから、どうあがいても、どんなに 努力しても、どんなに正義感を働かせても、所詮は罪人です。ですから、「自分は努力 すればできる」と考えるのは間違っています。もちろん、「何も努力しなくてもよい」と いうことではありません。まず、努力する前に「人間は真底弱い罪人」であることを悟る べきです。あるクリスチャンが、「自分は褒めてもらって伸びる」と言いました。 では、イエス様は人を褒めるために来られたのでしょうか? いいえ、主は、罪人を 救うために来られたのです。褒められるような人間なら、イエス様は、来る必要はあり ませんでした。人は、努力すること、又良き行いをしている人間こそ絶対主に受け 入れられると考えています。しかし、人間本来の姿は、生まれながらの罪人ですから、 その現実を忘れて、「自分は正しい心で歩んでいる」と自負する生き方は、絶対主の心を 逆撫でし、絶対主の怒りを買うのです。そこで、絶対主の御心に適う心というのは、 人が「どうにもならない悲しみ、嘆き、叫び、苦しみ、自分でどうあがいても、 自分の罪をどうにもできない心の葛藤を覚えて、『悔いて、悔いている者』たちであり、 そのような者たちに目を止めて下さる」ということです。そのような意味で、昔の キリシタンたちの禁教と迫害と拷問の中で、肉体に与えられた苦痛のゆえに、信仰を 続けることの難しさ、踏絵、 隠れた信仰の苦悩を絶対主は覚えて下さっているという ことです。(六畳二間の中に200人のキリシタンを 押し込めた。) 主は棄教することを許しているわけではありません。しかし、自分の弱さの中で悔い ている者を見過しになさる方ではありません。主は心を見られるからです。 ですから、主は「あなた方のこの50年間の苦労と涙と心の痛みは、あの殉教者たち の心の痛みを思いやる心のためです」と言われました。そして、試練を経た後に 「あなた方は豊かな恵みをこの地上で受けるばかりか、天において永遠の喜びを味わう のです。まさに御言に書かれてあることを、完全に味わえる時が来るのです。そして、 これからの年月は、たとえ困難があっても、逆に困難を楽しむことができるでしょう。 周りの者がハラハラしても、あなた方はワクワクするでしょう」と言われました。 そして、イエス様は、「わたしも同じ肉の子(ロマ8:2)であったのですから、 人の弱さを分からないことはありません」わたしと共に行きましょうと。ですから、 私たちは弱さを悟りつつ、主によりそって精一杯努力していきましょう。 |
|