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2014年 NO.505 |
私たちが、心を求められる理由は何でしょうか? それは、律法で求められたら、人間はやっていけないからです。私たちが律法一本筋で やって行けるのなら、イエス様は十字架につけられる必要はなかったでしょう。それなのに、 尚自分の能力に頼り、その成果を誇って認めてもらおうとするのは、何なのでしょう。 それは、律法で生きて行こうと思う頑なさ以外の何ものでもありません。それなのに、自分の 愚かさを、少しでも突かれ、突っ込まれると、すぐ弁解を始め、自分の失敗の原因を説明し 始めます。その説明を聞かなくても、イエス様は全部お見透しなのに、言う必要があるの でしょうか。しかし、私たちは自分の愚かを説明して、反省したかのように思いたいのです。 何故でしょう? それは、わたしたちの内にあるわずかばかり義を認めてもらいたいと思う 強い願望が尚抜け切っていないからでしょう。裏を返せば、自分が罪人その者であることが まだ分っていないからです。 私たちには、律法を求められたらやっていけないのに、自分の心の中に律法を重んじる思いを 入れているなら、生涯律法で自分の義を表わして行けばいいでしょう? しかし、それは、 今だに、律法が負い切れない荷だと分っていない頑なな心そのものです。それなら、 「イエス様の救いは必要ない」と、とことん自分の力に頼って行けばいいのです。私たちは 本当に中途半端な人間です。罪人だと言いながら、いつも自分の能力に頼ろうとしている。 それなのに、失敗すると罪人だと言い訳する。もういいかげん降参したらどうでしょう。 「砕かれた心」の人は、自分が真底罪人だと思い知らされている人で、「怒られて」その原因 を問われても、説明しようとは思わない人です。「ただ、自分が間違っていました」と、 自分の弁解の思いを砕いて、一方的に謝ろうとします。絶対主の私たちへの思い入れは、 この弁解の心を砕くだけです。なぜなら、罪が自分の素の姿だからです。もう、偽りの自分 に見切りをつけて、イエス様に在って生きる生き方だけを身に付けて行きましょう。 |
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