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 2014年3月23日 





天に望みを置くクリスチャンの勝利


黙示録31422



(起)「地上に望みを置くのではなく、天に望みを置くクリスチャンの勝利」ということに

ついて、学びたいと思います。


(承) さて、今日お読みしたところは、黙示録のラオデキヤの教会に対して書かれている

「熱くもなく、冷たくもない教会」への警告がその内容です。従ってそれを理解するために、

昔のキリシタンの殉教者たちの時代はどうだったのかを考えつつ、私達の時代について見て

みたいと思います。まず、初期のキリシタン大名たちは、地上での損得を考えて信じる人が

ほとんどでした。それはどういう事かと申しますと、外国からやって来る宣教師たちは、

いろいろな珍しい贈り物を持って来ましたから、「こういう人たちと付き合っていれば、

いろいろな新しいものが手に入り、貿易によって儲けることができる」と考えたからです。

そこで、宣教師を自分の領地に迎え入れ、教会を建てさせたり、布教することを赦してい

ました。しかし、本当にイエス様の十字架の意味が分かって教会を建てさせていたのかと

言いますと、そうではなく、ほとんどの人たちは、このような損得で受け入れていたのです。

ところが、お百姓さんたちの場合は、そうではありませんでした。いくら働いても年貢で取られ、

自分たちの生活は決して楽にはなりませんでした。だから彼らにとって、この地上に望みを

置く幸せなんてありませんでした。だから大名のように贈り物をもらうことが目的ではなく、

彼らが福音を聞いた時は、純粋に天に希望を置く信仰を持てたのです。また、たとえ禁教令が

交付されても、「天に自分たちの救いがあり、そこに慰めの場所がある」ということを

信じましたから、「自分の命なんて、いつでも差し上げます。取って下さい。

地上で生きていたって同じですから。」
という思いを持っていました。


(転) では、今日の私たちはどうでしょうか。17節を見ると、「あなたは、『自分は富んで

いて、豊かになった。何の不自由もない。』と言っている…」とあります。

しかし、私たちは、「自分が富んでいるなんて考えていない。」と思っているかも知れ

ませんが、先ほどお話ししたように、あの百姓であったキリシタンたちと比べたら、どうで

しょうか。 彼らは、「生かさず殺さず」という環境の中で生かされていましたから、

本当に貧しい中でただ耐えていました。ですから、彼らはこの地上に望みを置くことなど、

当然出来なかったのです。それに引き替え、今の私たちは、たとえ学生であっても

アルバイトすれば食べていける時代です。そこには、彼らと同じような不自由さはありません。

と言うことは、本気で天に望みを置いて、天を目指す人は少なくなっていると言うことです。

だから、地に対して望みを置き、「ある程度生きていければそれでいい。」と思って信仰を

捨てていく。そんな時代が今日です。だから、私たちは、その生ぬるい中の一員ではない

でしょうか。
ですから、私たちがこのような、生ぬるいままの信仰であったなら、主の許に

迎え入れてもらえると考えるのは、虫のいい信仰です。なぜなら、イエス様は、「この地上に

は望みがなく、惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることを自覚

している者たちを救うために、来て下さったのです。」ですから、前もお話ししたように、

私たちはクルシミチャンとして、自分の罪に自覚していて丁度なのです。自分の惨めさを思い

知らされていなければ、決して天に望みを置くことはできません。ですから、「イエス様に

よって、この罪人の世界から救われたい。」そのことだけを一途に願って、イエス様の方に

心を向かっていくなら、これこそが、クリスチャンの地上での真実な姿ではないでしょうか。

(結)すなわち、罪人である人間は、地上に望みを置くのではなく、天に望みを置く者

なのです。21節の、「勝利を得る者」とはどういう者でしょうか。「自分は、哀れな罪人

です。ですからイエス様の贖いが必要です。ここから引き上げて、どうか天に入れて下さい。

そこにしか望みがありません。」と、真剣にイエス様に目を向ける砕かれた心を持った者の

ことです。イエス様は、「それで十分です。」と仰って下さいましたから、地上にいる私たち

にとって心を向けるところは、イエス様による、罪人への救いの約束です。そこしかありません。

 これまでは、私たちは、
「この地上にあって、何の働きも無いこんな私達が、イエス様に

喜んでもらえるはずない。自分たちが立派な人間にならなければ、イエス様に受け入れて

もらえない。」
と思っていましたから、行いの方ばかり目を向けていました。

しかし、主の価値観と地上の人間の価値観は違います。絶対主の見方は、人間は本来、罪人に

過ぎない者ですから、そのことをありのまま認めて、へりくだりの心を持って、ひたすら主を

求めていく者を良しとされます。このことが分かったら、私たちはひとえに遜りましょう。

それで丁度です。そして、熱心に天に目を向け、この一本道で歩んで行きましょう。

その心を持った者に、イエス様は「共に食事をする。」と約束して下さいました。

ですから、
生涯イエス様に望みを置く生き方を貫いていく事が、クリスチャンの勝利です。

私達は、地上に望みを置く生き方ではなく、
天の御国に望みを置く勝利のクリスチャンとして、

主にあって生きていこうではありませんか。   



                                      

  
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