(起)これからの働きのために、必要な心構えについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、ここには、「数々の良い行いの中に歩むように。」という勧めが書かれています。
それは、パウロが彼らに、「良い行いをすることによって、主に聞き従うことを表してください。」
と願っていたからです。それは、その当時のイエス様を信じたクリスチャンたちは、皆、早い時期に
聖霊のバプテスマを受けていたからです。パウロさんやペテロさんは、救いの初めの時代に働きを
する使命が与えられ、「イエス様の救いを信じ受けとった者たちは、その良き証しの中でイエス様
を伝えていくように。」と考えていたからです。
(転) では、今日、救いの終わりの時代に立たされている私たちは、どういう働きをしていく
使命があるのでしょうか。それは先週も学んだように、素の状態(聖霊の力を受けていない状態)
で戦って、悪魔に勝利していくことです。絶対主のお考えは、本当は、終りの時代には、使徒行伝
にあるように、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と約束しておられるように、私たちにも聖霊の
バプテスマが与えられ、使徒たちと同じように証しをする者として用いて下さいます。
しかしながら、まだ聖霊の油そそぎがない現実もあります。その場合の私たちの使命は、
絶対主が、「この者たちを、今もうしばらく素のままで用いたい。」というお考えを持たれている
からです。ということは、私たちに約束されている聖霊のバプテスマが、今しばらく待つ必要が
あります。そこで私は、主にお尋ねしました。「絶対主が約束して下さっている聖霊のバプテスマ
が、何故起らないのですか。素の状態のままで、私たちに何ができますか?」と。
しかし、絶対主は、「わたしの考えは変えません。」と言われました。そのお言葉を聞いて、
いくら自分たちが願っても、絶対主が「まだです」と言われたら、現状の素のままで戦っていく
必要があります。それは、私たちの立場が、どこまでも絶対主を誉め称えていく被造物ですから、
たとえそうでなくても、私たちは遜ってお仕えしていく。この心を、今掴むべきだと思います。
しかし、聖霊のバプテスマの扉が開かれていない原因は、私たちの方にもまだあるようです。
それは、弱さを持っている自分自身を棚上げにする部分があるからです。どういうことかという
と、例えば、小学校、中学校の頃、成績が良かった人は、特別に猛勉強をしたわけでもないのに、
たまたま生まれ持った能力で良い成績をとれました。しかし、高校に行くと、自分よりも頭の
良い者が出てきます。大学に行ったらもっとそうです。そういう中で、自分の情けない自分を
思い知らされてはくるのですが、なかなか自分の弱さを認めることが出来ません。認めたら、
「馬鹿にされる。」という、強迫観念に支配されるからです。しかし、クリスチャンになると
絶対主は、へり下る心を持たず、ただできる自分自身を表しても受け入れてはくれません。
世では、「できる子」は、受け入れられます。しかし、絶対主の目から見られたら、いくら
「できる子」であっても、人間は、罪人にすぎませんから、まずへり下るべきです。
ですから、絶対主の前に、受け入れられないのは、自分の力に頼るところがあるからです。
私たちは、まずそれを認めるべきです。少しでも、「昔の栄光をキープし続けたい。
できる自分自身であらなくちゃ。」という考えは、砕かれなければいけません。
しかし、それが砕かれた時に、素の自分が出てきます。その素の自分は本来罪人の頭だという
事です。それが分かれば、主の前に遜ることができます。逆に、学校の成績も悪く、
何をやっても、なかなかうまくいかなかった人は、自分の弱さや情けなさの中に留まり続ける
ことがあります。しかし、弱さと、罪深さを認めることは、正しいのですが、その後も、
ずっと弱いままの中に留まっていいわけではありません。その弱い中にあって、
今度はへり下ってイエス様を信頼して、前に向かっていく心が必要だからです。
これまでのように、「弱いからできない。しょうがない。」と言って逃げていてはいけません。
(結) 私たちは、今なお力をいただいていない、素の弱い人間です。しかし、力をいただいて
いないからといって、前に進めないという訳ではありません。私たちは、素のままでは、
とても悪魔に立ち向かうことができません。しかし、絶対主は、私たちが弱い者で、力がない者
であることを知っておられたからこそ、そんな私達をイエス様によって贖ってくださったのです。
だから、それでも前に向かっていくことを願っておられ、終わりの時代に生きている私たちに、
その弱さを持ったままでも、悪魔に勝利を突きつけて欲しいと願っておられるのです。
なぜなら、素の人間が悪魔に立ち向かって、勝利することによって、アダムが悪魔にやられた
敗北のままにしておかれないためです。ですから、私たちは弱さがあっても、前向きに戦って
いく世界に心を向けていくべきです。そして、主に対する信仰の証しを残していこうではあり
ませんか。その勝利の後には、聖霊の力を注がれ、終りの時代になすべき、本物の戦いが待って
いるのですから。 |
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