(起)「砕かれた心の実践のための心構え」について学んでいきたいと思います。
(承) さて、昨年1年間を振り返ってみると、私たちの教会では殉教者たちの声を聞くこと
が始まり、いろいろ事を学ばせてもらいました。その中でも、特に殉教者の方々が共通して
持っておられた心は、「自分たちは『混ぜものの福音』を信じていました」と告白して
おられたことです。彼らはマリヤ崇拝をしていましたので、その事を悔いて、その場所に
留まられたのです。私たちは、そのような方々の所に行き、イエス様の懐に帰ってもらう
ための働きをさせて頂きました。この働きは、そんなに難しい事ではありませんでした。
何故かと言いますと、彼らは元々、イエス様のために生きて命を懸けて行った人たちです。
ですから、イエス様を第一にしようとする「砕かれた心」を、一人一人の方々が、
その心根の中に持っておられたからです。ですから、そこを土台にしてお話しすれば、
彼らの心は開かれます。そして、牧師の心と彼らの心は、すぐに一致するのです。
(転) では、今現在の私たちはどうでしょうか。
私たちは、「悔いし砕かれた心」を持つために20年間、御言葉を学び、また、
あれだけの事を経験させて頂いたにも関わらず、なお心を砕くことが出来ません。
その原因は、私たちも「混ぜ物の福音」を持っていたからです。その混ぜ物の福音とは、
ヒューマニズムです。日本の教育は、戦後、がらっと変わりました。戦争以前は、
親の教育も国の教育も、完璧に、「従うこと」が教育の中心でした。しかし戦後、
日本は自信を失い、アメリカの教育を取り入れ始めたのです。それが、自由主義、
個人主義です。戦後に生まれた私たちは、生まれながらにして、個人主義、自分中心主義
の考え方の中で教育を受け、自分を主人とする生き方をしていくように、育てられてきました。
ですから、その中で育てられた私たちは、いま無条件でイエス様に従っていくということに
対して、心がついていかないのです。ただ頭で理解しているだけで、心の中で「仕えていく」
「従っていく」という気持ちに、抵抗があるからです。しかし、私たちはこれからの時代に
おいて、徹底的にその中に歩まなくてはなりません。9:24に、「自分の命を救おうと思う
者は、それを失う」とあります。私たちの意識の中には、「自分の命は自分のものだ。」
という心がありますが、そうすると、イエス様の言われた、「自分を徹底的に否定して、
日々自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」(9:23)と言われた生き方は
できなくなります。となると、行く先は裁きしかありません。しかし、元々私たちは
生まれながらに罪人で、地獄に行く者です。そんな私たちを救うために、イエス様は
十字架に架かって私たちの罪の贖いをしてくださり、そればかりでなく、地獄に行く者を
ハデスにまで行って引き出し、救い出して下さったのです。そこまでして下さらなければ、
私たちは救われない者なのです。そのことを考えたら、「自分の命は捨てたくない」とか、
「自分の立場やメンツを譲れない」なんて主張するのはおかしいのではないでしょうか。
私たちはそこから救い出されたのですから、「私のことは、もうどうでもいいのです。
私はイエス様に従っていきます」という心にならなくてはいけません。その心を持って
行ったのが、マグダラのマリヤです。彼女は姦淫の現場で捕えられ、みんなの目の前で
罪がさらけ出され、何一つ「自分は悪くない」とは言えない状況の中に置かれました。
しかし、その時イエス様は、「わたしも、あなたを罪にしない」と、その裁きからマリヤ
を引き上げて下さったのです。その後のマグダラのマリヤは、もうイエス様しかあり
ませんでした。地獄の裁きから引き上げて下さったイエス様に望みを置き、「元々恥だらけ
の人間ですから、地獄から引き上げて下さったイエス様のためならば、喜んで恥を受けます」
と、イエス様だけに従っていく心を持ちました。私たちも、この心をイエス様の前に表して
いくべきです。彼女は、確かに姦淫の罪を犯した罪深い女です。しかし、イエス様に一途に
心を向けた彼女の心は、気高いのです。気高いとは、上品という意味です。本物の上品な心は、
悔いし砕かれた心です。彼女は、どれだけ人前で誤解を受けようが、「イエス様のためならば」
と言って生涯を送って行ったのです。では、私たちは、マグダラのマリヤのような罪人では
ないと言えるのでしょうか?
(結) 私たち日本人の心の中には、滅私奉公という精神があります。
この心は、イエス様の前に大切な精神です。昔の日本のキリシタンの人々には、この心が
ありました。しかし、いつしか「個人主義、人間中心主義」という、自分さえ良ければいい
という「混ぜものアメリカナイズされた信仰」が入って来てしまいました。生れた時から、
そういう教育を受け、それが心の中に根付いてしまっているのです。それは、今改めていかな
ければ成りません。私たちは、キリシタンの信仰によって、このことを知ったのですから、
自分たちの考えが100%間違っていることを、よくよく心に入れるべきです。即ち、自分を守り、
自分を大事にして、どうして「砕かれた心の実践」が出来るでしょうか。それを捨てて初めて
出来るのです。これからは、キリストのためには、あえて汚名を受けることも甘んじて行く
べきです。私たちは、イエス様に救われた罪人に過ぎません。ですから、恥を受けていくのは
当然です。それが本当に心の中に入っていなければ、自分中心な「混ぜ物の信仰」になります。
どうか、本物の綺麗事の信仰に立って、主に従っていきましょう。 |