(起)「私たちの宝はイエス様である」ことについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、34節に、「あなた方の宝のある所には、心もあるからです」とありますが、
イエス様がいつも見られるのは心であり、その心の中にどういう思いを抱いているかが
問われます。これは、人の目には見えないことです。しかし、イエス様は私たちの心の中に
あるものが何であるか、全部読み取ることがおできになります。そればかりでなく、
イエス様は、私たちのことを私たち以上に知っていて下さる方です。なぜなら、イエス様は
私たちと同じ肉を持ってこの地上に来てくださり、人の心の中の葛藤も全部味い、知って
下さった方だからです。ですから、私たちにとって、心の中に何が入っているかが、
とても大切な問題なのです。
(転) では、普段の私たちの心の中に入っているものが、何なのか考えましょうか。
私たちは、口では「イエス様、イエス様」と言っていても、いつも自分の事ばかり考え、
自分の損得を大事にしています。ですから、いつも「自分にとって、それは損か得か」という
思いが、心の内にあるのが現実です。私たちの心の奥底には、常に自分の一番興味ある物を
入れています。ですから、そのことが私たち自身の宝となっているのです。イエス様はそれも
全部お見通しです。しかし、私たちは、これから主の大きな働きに携わっていく教会です。
48節に、「多く任せられた者は、多く要求されます。」とありますが、私たちの教会は、
その多く任せられた教会であり、世の終わりに、リバイバルのために働くという仕事を、
特別に与えられている教会なのです。今は、全くそういうイメージが湧いてこないかもしれ
ませんが、イエス様はこの東の果ての小さな教会に目をお留めになり、志を与えて下さい
ました。確かに、自分たちを見ると、「私のような者が・・・」と思います。
しかし、もしそのように考えていたなら、あのザカリヤと同じになり、目が見え無くされ
ます。何故かというと、私たちも長い間このことを祈り、それが実現する事を願ってここ
まで来たのです。ですから、マリヤのように「お言葉通りになりますように」と心を開いて
受け止めていく必要があります。そこで、主が言われたように、私たちは、「悔いし
砕かれた心の実践」を3月までにしなければなりません。その「悔いし砕かれた心」の基は、
「自分の心の中にある宝は、イエス様です」と定めることです。先週も少しお話ししま
したが、マグダラのマリヤはその心を持った人です。彼女は、人前で自分の罪を全部さらけ
出され、何も守るものがなくなり、空っぽの状態になりました。しかし、その心の中に
イエス様が入って下さり、彼女にとってイエス様だけが心の望みとなりました。だから
「彼女の心の宝は、イエス様しかない」という思いが宝であったのです。私たちも、
イエス様の前に100%同じ罪人です。そのことをきちんと心で理解したなら、「私の宝は、
イエス様だけです」となります。すなわち、こんな罪人を救うためにイエス様が来て
下さったということが分かったら、イエス様一途になるでしょう。私たちの教会は、
今みんなが、この心で一致すべき時です。
(結) 私たちの教会は、多く任されたのですから、それだけ高い信仰を要求されて
当然です。ですから、今までのように、「自分を愛し、イエス様も愛する」という、
二心の気持ちを持っていては、この働きは全うできません。「私たちの宝は、イエス
様だけです。」ですから、「まず絶対主の御国を求めなさい」(31節)とあるように、
私たちが、イエス様を第一にするなら、この世の必要は、イエス様が添えて皆お与えて
くださいます。主はそのように約束して下さいました。その綺麗事の信仰が本当に通用
するかどうか、それを一人一人が体験していくべきです。私たちは、もう損得勘定の
計算をしてはなりません。また、自分自身の思いとイエス様の思いを天秤にかけては
いけません。これからは、自分を徹底的に否定し、イエス様のお言葉に対して、「はい。」
と言うだけです。この信念に一人一人が立ち、たとえ私たちが学生であっても、
社会人であっても、主婦であっても、みな主の伝道者としての意識を持って、
お仕えしていこうではありませんか。なぜなら、「私たちの宝は、イエス様」だからです。 |