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2013年 NO.465 |
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一般に、キリスト教が科学を妨げて来たと考えられて来ました。 それは、アリストテレス(BC384〜322年)とプトレマイオス(AD127〜150 年)の称えた天動説が、16世紀に入ってコペルニクス(1473〜1543年)に よって地動説が称えられ、ガリレオ(1564〜1642年)が、アリストテレスの 誤りを証明したことによって、カトリック教会が彼を迫害したからです。 しかし、コペルニクス、ガリレオ、ケプラーは、みな敬虔なクリスチャンで、ニュートン を始めパスカル、ボイル、ファラデー、マクスウェルもみな敬虔な牧師、信徒たちでした。 彼らは、みな「何故ということに興味を持たず、如何にということのみに興味を示して いた」のです。なぜなら、宇宙を創造した人格的な絶対主が存在する、というところから 科学をしていたからです。ニュートンは、晩年になって科学よりも聖書について多くを 記しています。彼の聖書への熱烈な興味は、「宇宙を創造した絶対主が、聖書の中で人々 に真理を伝えている」と考えていたからです。その真理が、彼らにとって自然科学でした。 又、マイケル・ファラデー(1791〜1867年)は、金属性の導体が磁場を動くと、 その導体の中に電磁誘導が起こり、電流が生じることを発見しました。 そして彼は「絶対主の創造についての知識は、万人が享受すべきものである」と確信し、 実験の一般公開を行いました。 このように、コペルニクスからマクスウェルに至まで、彼らはキリスト教的な基盤の 上で科学をしていました。それは、絶対主がこの天地を創造された時、全ての自然法則も 同時にインストールされたので、この世界に法則が発見できると考えていたからです。 それが、もし偶然によって出来たデタラメの世界であるなら、秩序ある自然法則は、 誰も発見できなかったでしょう。又人間もデタラメの存在であれば、知性的な自然法則を 発見できなかったのです。 水のエネルギーが電気エネルギーに変えられる法則のおかげで、人間は文明社会で絶対主 の創造の叡智を享受できます。これはなんと有難いことでしょうか。秩序ある自然界を 偶然から始まったと考える進化論者では、不安極まりない世界しか見ることができず、 科学はできないのです。 |
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