『キリスト教が引き起こして来た、
残虐極まらない行為』
「キリスト教史の中に見る十字軍の残虐性、また宗教裁判、魔女狩り、ホロコースト等
は、キリスト教信仰に価値観を見出すことのできない恐怖で、宗教の怖さを感じる。」
とキリスト教批評家の鋭い指摘があります。
たしかに1600年代をピークに、キリスト教の暗黒時代が引き起こした残虐性には、
弁解の余地はありません。1994年、ヨハネ・パウロ二世は、宗教戦争や、宗教裁判
などによって教会が信仰の名の下に行なわれたあらゆる暴力の誤りを認めました。
しかし、これらのキリスト教史の中に見る残虐的行為は、初期のキリスト教徒の信仰の
行為とは、雲泥の差があります。その違いは、初期のキリスト教の普及の中に見られます。
歴史家の間では、初期のクリスチャンが凄惨かつ激しい迫害を受けたにもかかわらず、
彼らは「自分たちが不死である」という確信によって、救い主イエスに栄光を帰すため、
自らのプライドをかなぐり捨てて、途方にくれた力なき弱者や、さげすまれ見放された
貧困者たちに救いの手を差し伸べていたと言っています。
イエス様自身も「主よ、主よと言う者がみな、天の御国に入るのではなく、天におられる
父の御心を行なう者が入るのです」(マタイ7:21)と言われました。ですから、
キリスト教の名をかざしながらも、その実、イエスの教えと相反するような行ないを
してきた、単なる文化的クリスチャンと、正真正銘のクリスチャンの生き方は、
自ら違っていました。
この文化的クリスチャンは、キリスト教が国教化され、教会が国家と関係が深くなる
につれ、世俗主義化された信者、あるいは名だけの信者が教会に入り込んできたことに
よります。
ですから、クリスチャンの世俗化がどんなに怖いものか分かります。教会が国家を
使って他者を迫害するのは、あってはならないことです。ですから政治と宗教は分離されて
いなければならず、また個人の信仰の自由も犯されてはなりません。
私たちは、歴史の中にキリスト教の汚点も見ますが、本物のクリスチャンたちの命を
懸けた正真正銘の信仰が、事実、世界中の人々に恩恵を与え、病院、孤児院、悪魔崇拝
からの解放、識字率の 向上、差別撤廃、文化的生活などの改善に計り知れない功績を
見るのです。「福音は、人々を救いに導く創造主の力です。」から。
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