「悪や困難が、この世にある以上愛の神は存在しない。」
ジャーナリストの仕事を止めて、宗教活動を始めたテンプルトンは、ビリーグラハムと行動を
共にしました。彼が宣教大会で説教すると、1200人余りの聴衆が、あっという間に溢れ
かえったのです。アメリカン・マガジン誌は、「テンプルトンは大衆伝道の新しい形を築いた。」と
称賛しました。
しかしほどなく、彼は自分の回心を疑うようになり、神と決別してしまったのです。
その理由は、「北アフリカのかんばつによって母親と赤ん坊の命を奪った神は、鬼だ。」と
思ったからです。それは、「雨を降らせるのは、人間じゃない、神だ。それなのに、
雨を取り上げて、母親を苦しみのどん底に落とし入れることを『愛の神』がどうしてできるのか。
そんな神がいることを信じるのは、自分の理性を否定することになる。」と考え、
宣教から身を引いてしまったのでした。
彼は、自分の住む世界に、「愛の神は 存在しない。」と言い切ったのです。
しかし、苦悩の存在は、必然的に神の不在を意味するのでしょうか?
そうではありません。なぜなら、「もし神が、罪によって滅ぼされるべき怒りの器を豊かな寛容を
持って忍耐して下さったとしたら、どうでしょうか?」
いい逆らう私たちは、ただで済むでしょうか。
神が愛なら、「なぜこんな苦悩が存在するのか。」と人は怒りをぶつけます。
しかし、この怒りは、悪と対比する「究極の愛」が存在することを前提にぶつけているのです。
その「究極の愛」は、神の呼び名のひとつです。
自分でも気づかない内に、人は、神の存在を前提に、物事を考えているのです。
もし、神が実在しないのなら、悪を悪と判断する人間の道徳性は、どこから来たのでしょうか?
人が怒り、考え、理性を働かす。その目に見えない精神の出所は、モノからは生まれません。
この目に見えない精神の働きは、目に見えない神から与えられたものとしか考えられないのです。
ですから、神の存在を否定したら、自分の存在を否定することになるのです。
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