@ 今朝は、私たち一人一人が、空っぽの器を創造主の御前にへりくだって差し出す時に、
油を注いで下さることを、今一度学びたいと思います。
A さて、5章10節の御言にある「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで
完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」という御言は、私たちの
心の中に、長い間留め置かれてきた御言です。
そして、実際様々な取り扱いを通して学んだことは、「へりくだる」という一事でした。
その基本は、「砕かれた悔いた心」です。そして、戦いの始まった今こそ、砕かれた悔いた心の
「空っぽの器」を差し出していく時が来ました。
B では、「空っぽの器」を差し出すとはどういう事なのか、考えてみましょう。
先日、ブドウの実に書かれた、一人一人の御言を読んで、それぞれが信仰によって
立ち上がろうとしていることが良く分かりました。そこで、いよいよ、
「完全にし、堅く立たせ・・・」という御言の幕開けの第一歩かな・・・と、
心に伝わってきました。ところが今回、具体的な霊的戦いに向った時、自分たちの力が如何に
無力かを思い知らされました。その原因は、それぞれが、「空っぽの器ではなかった」ことに
あります。もし空っぽであったなら、全能主は油を注いでくださったでしょう。
あのやもめがエリヤの所に持って行った空っぽの器に、油が注がれたようにです。
ところが、今回は無力な信仰の姿をさらけ出しました。
では、その問題はどこにあったのでしょうか。
そもそも、空っぽの器というのは、「自分の中には、自信を持てる要素は一つもない」と
いう事を認める所から始まります。ですから、「自分は空っぽだから自分では何も出来ない、
オドオドした弱い者だ。」と思う位で丁度良いのです。ところが悪魔は巧妙にやってきます。
「そんなにオドオドした不信仰で、なにができるのか!」と、脅かしてきます。
そんな時、私たちは何とかして自分の中から信仰を絞り出そうと、躍起になってしまいます。
そして、何とか自分の力で戦おうとしたのです。この霊的な戦いは、自分の肉の力ではとても
戦えるものではありません。それを悟らず、どこまでも自分の中にある力でやろうと
することこそ、傲慢であり、肉の器そのものなのです。神は、このような高ぶる者を
一番嫌われるのです。
ですから「自分には何もありません」と、へりくだり、空っぽの器を差し出すなら、
全能主は油を注いでくださるのです。確かに、空っぽですから弱弱しさを感じるでしょう。
しかし、それで丁度です。へりくだりの意識を与えるからです。
オドオドし、一瞬、臆病になることは敗北ではありません。そこですぐ、全能主を見上げ、
イエスの御名によってやろうと切り替えれば良かったのです。
それが、空っぽの器を差し出すことなのです。
C 私たちは被造物にすぎない者です。それでも自由意志を頂いているが故に、自分に全主権が
あるかのように錯覚して自分の力でやろうとしてしまうのです。
しかし、もし私たちが、頂いている自由意志を100%働かせて、100%主権者なる創り主に頼って
いくことを選択するなら、主は大いに喜んでくださるのです。私たちの価値は、霊的な働きを
することにあります。それは永遠に続く働きです。
その時必要なのは、世の知識ではありません。私たちの知らなかった霊的な力であったのです。
だから、へりくだって霊の力を主に求めていくべきです。この心が勝利につながるのですから。 |