@ 今朝は、15〜17節を中心に、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んで
よみがえった方のために生きる」ということが、私達の現実の生き方になっていくことを
考えて行きたいと思います。
A さて、「もはや自分のために生きるのではなく・・・」とあります。
ところが普段の私たちには、「自分のために生きることが染みついています。」
それは、私たちすべての人間は「霊と魂と体」によって構成されていて、その魂の部分が
生まれながらの肉の影響を受けてしまうからです。
実に、「肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」という現実の中にクリスチャンはあるのです。
ですから、肉が御霊によって治められて行くならば、勝利できるでしょう。
ならば、クリスチャンとしての健全な生き方は、「もはや自分のために生きていく」ことでは
なくなるのです。
B では、御霊によって生きる霊的な生き方、即ち、キリストのために生きる生き方について
考えてみましょう。
まず、キリストのために生きようとするとき、一番の障害となるのは、魂の部分です。
すなわち、肉と言われる「精神(心)、知性、感情」を、普段どのように使っているかが
問題なのです。
例えば、主の奉仕をするに当たっても、自分の都合で考えてやっていこうとするなら、
それは御霊による判断ではなく、自分の感情による判断となるでしょう。
それは、冷静かつ聖書に基ずく論理的な判断ではないからです。確かに子どもの頃の特徴は、
感情まかせで身勝手です。それが大人へと成長するに従って、感情はおさめられていきます。
しかし、だからといって、感情がいつも正しく収められているわけではありません。
自分を守ろうとする感情の反応は、いつも出てくるのです。悪魔はこの部分に働き、
その感情が正義であるかのように思わせ、御霊の思いを超えさせてしまうのです。
又その肉の感情は、この世の情を大切にします。それによって、霊的な正しい判断が出来なく
なってしまうのです。そこで、私たちが、主の御心にそった霊的な判断をして行きたいと
願うなら、肉の感情を否定し、砕いていかねばなりません。
ですからパウロは言っています。「人間的な標準でキリストを知ろうとはしません」と。
その意味はこうです。「信じた当初は、御利益を求めて信じたのですが、
今は、自分の肉の為ではなく、キリストのために生きることだと分かってきました。
だから、人間的な標準で、キリストを知ろうとしないのであり、肉の感情で対応することは
しないのです。」何故なら、私はキリストと共に死んだのですから、もはや古い自分は
過ぎ去りました。ですから、霊的な判断で生きていく新しい生き方、
即ち、自分のためではなく、死んでよみがえったキリストのために生きていけばいいのです。
それが肉を砕く、砕かれた悔いた心なのです。
C 私たちは、肉的な考え方から、主を見上げて、霊的な考えに切り替えていくべきです。
なぜなら、私たちは、正しい知性に基づいて判断をし、正々堂々と主のために
生きて行きたいからです。また、堅く信仰に立って、肉の感情を砕いていくとき、聖霊様の
力強い助けを受けていくことが出来ます。こうして、私達は、キリストのために生きる
現実の生涯を送ることが出来るのです。この信仰に勇気を持って踏み出していきましょう。 |