『自ら“そうしたい”という心を働かす』
マタイ19章16〜22節
@ 今朝は、私たちに与えられている自立心(自由意志)を、正しく働かせていくことについて
学びたいと思います。
A さて、私たちは、罪を犯してしまう自分を見たとき、「もし、アダムとエバが罪を犯さな
かったら、こんなに苦しむことはなかったのに・・・」とか、「もし、善悪を知る木の実が
なかったら、罪を犯すことはなかったのに・・・」と、恨みがましく考えたりします。
それは、これまでの私達は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」という掟を
破ったから罪が入ったのであり、その子孫であるから罪を犯してしまうのだと考えて
いたからです。果たして、そのように責任転嫁出来るのでしょうか?
悪魔の場合はどうでしょうか? 天使として創造され、「全き者の典型、美の極み」と称される
ほどでしたが、傲慢になり堕落して創造主に逆らう者(悪魔)となってしまったのです。
悪魔が創造主に逆らい、罪を犯したのは誰かに誘惑されたからですか?また、善悪を知る木の実を
食べたからですか? 否。天使であった彼自身の自由意志によります。
これは、同じように自由意志(自立心)を与えられている私たちにも言えることではないで
しょうか。ですから、この自立心をどのように使うかは私たちに委ねられているのです。
B では、私たちは自立心をどのように働かせていくべきか、イエス様に質問をしてきた青年を
通して考えてみましょう。彼は、「永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら
いいでしょうか。」とイエス様に尋ねました。戒めを守るようにと言われると彼は、
みな守ってきたと言ったのです。その戒めの一つに、『自分を愛するように、あなたの隣人を
愛せよ。』という戒めがありました。そこでイエス様は言われたのです。「あなたの持ち物を
売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と。すると彼は、去って行ってしまいました。
彼は求められたとき、やるべきだと思っても、自由意志を正しく働かせて行動することが出来な
かったのです。罪の子孫だから正しく自由意志を働かせることが出来なかったのでしょうか。
いいえ。アダムは、罪を知らないときに罪を犯し、罪を犯す前に持っていた自立心を正しく
用いることが出来なかったのです。ですから、私達もアダムの子孫だからと言って言い訳は
できません。私たちは、創造主の前に、一つも弁解も擁護も出来ない者なのです。
それは、自立心を正しく働かせるか否かは、私たちにかかっているからです。
すると私たちの心は、「そうだ!正しい自立心の中に歩んで行くべきだ!」と元気になります。
しかし、自由意志に期待しても出来たためしがありません。律法主義では、罪人の子孫として、
誠実に歩んでいたヨブでさえ失敗したのです。そこで私たちはこう考えます。アダムやヨブも
誘惑する者がいなかったなら・・・と。しかし、ここにこそ悪魔の存在意義があるのです。
創造主は、私たち人間をあえて罪の中に閉じこめ、自立心を正しく働かすように導きたかった
のです。それは、「〜をしてはいけない。」という律法ではなく、罪の苦しみや失敗を味わう
ことによって、「もうあんな事はしたくない。」という思いを起こし、「もうイヤだ!」という
心に変えたかったのです。そしてこの正しい自立心を働かせてイエス・キリストのもとに
来るなら、罪を赦されて救われるという幸いが予め用意されていたからです。
このように心を変えたのが、マグダラのマリヤでした。七つの悪霊から解放された彼女は、心底、
二度としたくないと思い、「イエス様が言われることなら何でもしたい!」という献身の心に
変わったのです。ですから、イエス様が死んでからも心が切れずに墓の前で泣いていたのです。
自立心は、「ねばならない」ではなく、自ら「そうしたい」という心を働かせていくこと
なのです。
C 創造主は、私たち人間が生まれる前から、いや、罪を犯す前からを、罪の中から救うことを
永遠のご計画として持っておられました。そのためにひとり子のイエス様を罪深い世に遣わされた
のです。私たちが、罪を犯すことも、創造の初めから折込み済みの計画でした。
ですから、私たちが罪を犯した時、怒られて当然ですから、その時は、心を砕いていけばいいの
です。自立心をそのように働かせ、へり下って私たちもマグダラのマリヤの心を持って主に仕えて
いきましょう。
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