『聖書の土台は創世記』
創世記3章1〜24節
@ 今朝は、聖書の土台は創世記にあることについて、学びたいと思います。
A さて、創世記1章から11章までの内容に対して、リベラルな教会は神話だと考え、真実だと
思っていません。何らかの真理がここに隠されていて、それを伝えるために書かれたのだと考えて
いるのです。そういう人たちは、この世界は偶然に進化して出現したという進化論を信じている
からです。ある神学校の校長は、「世界中の科学者が創世記を事実だと認めなければ、自分は
文字通りには信じません。」とまで公言しています。リベラルな教会や、ヒューマニズムに
立っている人々は、自分の力と知恵によって自分を生かしていこうと追求していく人々です。
ですから聖書に対しても、信じたいところは信じるが信じたくないところは信じないと、自分が
主権者となっているのです。ですから、創世記は科学と一致しないと考えて、創造主の言葉として
受けとめないのです。しかし、聖書の土台は、この創世記にあるのです。
B では、1章から11章までが、何故聖書の土台なのか見ていきましょう。
これは私たちが存在する土台にもなります。
1章には、私たちが何故存在しているのか、どのような環境に、どのようにして存在するように
なったのかが書かれています。創造主は一瞬でも全てを創造できる方ですが、六日間かけて
天地万物を創造されました。六日働いて七日目に休むというサイクルが人間にとって一番良い
サイクルだったからです。ですから安息日を定められたのです。私たちが働くことについても、
アダムが罪を犯したから労働があるのではなく、罪を犯す前から労働はあったのです
(2章15節)。耕すのではなく、おそらく木の世話をする働きだったでしょう。
ここに労働の初めがあります。
17節には、世界で初めての法律があります。如何にも食べたくなるような物を置いておくなんて
ズルイよね、と言う人もいますが、何千本もある中で一本だけ、これは私のものとして取っておき
なさい、と言われているのですから、何の抵抗もなかったのではないでしょうか。私たちは法律が
あるから守られているように、創造主の法律を守るならば幸せに生きることが出来るわけです。
ところが多くの人々は創造主を創造主として認めないで生きています。これは創造主の法律を
守っていないことになります。全ての人が創造主によって造られたのですから、自分には関係ない
とは言えないからです。
モーセの十戒には、「父と母を敬え。あなたの齢が長くなるためである。」と約束してあります。
このように主が約束して下さったことはそのまま信じるに値することなのです。
結婚の初めも創世記に書かれています。
2章24節にあるように、結婚の制度は創造主が定めたものです。ところが今日は、同性愛を認める
べきだと主張します。その根拠は、カエルは、単為生殖することがあるのだから、人間も同姓結婚
でもいいじゃないか、というものです。これは何の根拠にもなりません。
また3章では、罪の初まりがあります。アダムの罪によって死がもたらされた(Tコリント15章
20〜22)のです。病気もその結果の一つです。
又夫婦間の関係についても記されています。
アダムはエバが取った木の実を食べて罪を犯しましたが、それは、アダムがエバの支配下に入った
からです。これは正しい秩序ではありませんでした。ですから、創造主は3章16節で正しい秩序を
示されたのです。夫に従って生きるならば幸せに生きることが出来るよ、ということです。
さらに3章15節では、最初の福音が示されています。これは、全世界の人々のためです。
又、10章にはバベルの塔の記事があり、言語の始まりが記されています。
進化論者は、遡れば一つの言葉にたどり着くと考えました。しかし、17〜67の言語までで、
そこから変化していったと考えられるのです。
このように1章から11章というのは、私たちと直接結びついている訳で、神話ではないのです。
C 創世記を非科学的としてそのまま信じ受け入れようとしない教会やクリスチャンたちは、
創造主の考えよりも人の考えや教えの方が正しいとして受け入れています。
しかし今日、私たち人間の存在そのものが創造主の存在を明らかにしていることが、科学的にも
証明されてきました。私たちは、この創造主に信頼し、先ず創造主の国とその義とを第一に
求めて、どこまでも、命を下さった主に従って行こうではありませんか。 |
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