『互いに愛し合うとは』
第Tヨハネ3章21〜24節
@ 今朝は、「互いに愛し合う」という事の、真の意味について学びたいと思います。
A さて、ヨハネが語りたい主題は、3章21節以降にあります。
つまり、自分たちは、「神のうちにとどまるべきである。」ということです。何故このように書く
必要があったのでしょうか。それは2章26節にあるように、惑わそうとする人たち、即ち、
反キリストが起こってきたからです。彼らは、イエスがキリストであることを否定する者であり、
律法に戻っていこうとする者たちで、キリストの救いをないがしろにする人々です。このことは、
ユダヤ人達だけの問題ではありません。私たち異邦人にとっても起こってくることです。
もし異邦人である私たちがキリストの救いを否定するならば、自分の努力で救いを獲得するか、
世に戻っていくかのどちらかです。結果的にはどちらも、「出来ない」と言って、あきらめて
しまうことでしょう。ですから、救いの真理を正しく理解しすべきなのです。
B では、キリストの救いの真理について考えてみましょう。ヨハネは、「神から生まれた者は罪を
犯さない」と言っています。この言葉は私たちを不安にします。
何故なら、私たちは、罪を犯してしまう者だからです。もし、キリストを信じたとき、私たちの
人格もガラッと変わって全く新しい人間になっていたら、罪を犯すこともないでしょう。
しかし、現実は、日々の罪に悩まされる者です。しかしながら、キリストの救いは完全なものです。
というのは、罪人の私たちが、「もし、罪を犯していないというなら、私たちは神を偽り者とするの
です。」と、1章10節にあります。ということは、「神から生まれた者は、罪を犯さない。」という
ことの意味は、別の意味で言われているのです。それは、反キリストに惑わされて、キリストを否認
する罪です。なぜなら、罪人である私たちは、「キリストと共に死んだ」のであり、今の現状に
関係なく、キリストの贖いによって永遠に聖なる者とされる立場をもっているからです。
私達は、完全な救いの立場と、現実に罪人の状態という二面性を持っているのです。
ですから、「神から生まれた者は罪を犯さない。」という意味は、反キリストに惑わされて、
「救いを否定するような罪を犯さない」という意味です。
しかし、罪を犯してしまう現状の私たちには、このように言われています。
「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から
私たちをきよめてくださいます。」と。ここで使われている「きよめ」の意味は、
クリーンにする、(掃除をする)という意味です。つまり、日常犯してしまう罪については、告白
したなら掃除(クリーン)してあげるから、熱心になって悔い改めなさい、と言われているのです。
しかも、こんな私たちのために、キリストが弁護してくださるというのです。私たちの現状の罪に
ついては、このように肉の罪には、憐れみがあります。しかし、キリストを否認したら終りです。
だから、「キリストが清くあられるように、自分を清くします。」といわれている
「清く」の意味は、ピュア(純粋)という意味です。これは、最後までキリストのために生きる
生き方を全うするという事です。この生き方は、「イエス・キリストの御名を信じること」、
「信じた者同士が互いに愛し合うこと」であり、神の命令なのです。キリストを信じる者同士が、
互いに愛し合うことは当然であり、キリストを最後まで信じ続けるのも当然です。
C 私たちは、「ことばや口先だけでなく、行いと真実を持って愛そうではないか」とあります。
私たちは、地上で我欲のために生きるのではなく、キリストを信じる信仰によって神のために
生きたいのです。それは、自分を守る生き方ではなく、自分を明け渡して「互いに愛し合う」、
信仰と愛と希望の中にキリストを証ししていく生き方です。 |
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