『揺るぎない救いの確信』
ヘブル書10章32〜39節
@ 今朝は、クリスチャンの救いの確信は揺るぎないものであることを学びたいと思います。
A さて、多くのクリスチャン達は、救われたにも関わらず、信じた後に依然として罪に
悩まされている自分を見ては「本当に救われているのだろうか」と不安に陥ってしまいます。
特に、「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや
残されていません。」(10章26節)とのへブル書の御言を読むと、不安に陥り、救いの確信が揺らい
で、悩みの中に入ってしまうのです。そして、不安を一掃するために自分の努力に頼り、罪から解放
されようと律法的になったり、逆に自分の力の足りなさを憶えると、恵で救われて
いるのだから・・・と放縦の方向に向かったりと、右に左にぶれて、クルシミチャンになって
しまうのです。これは、おかしな事です。
B では、「永遠のいのちの完全な救い」について考えてみましょう。
先ず、この手紙はへブル人(ユダヤ人)クリスチャンに当てて書かれたものであることを心に留めて
おきましょう。彼らに対してパウロは言っています。「私たちがこんなにすばらしい救いを
ないがしろにした場合、どうして処罰からのがれることが出来ましょう。」(2章3節)とあります。
このユダヤ人クリスチャンが、「救いをないがしろにする」とはどういう事でしょうか。
そのヒントは6章1,2節にあります。即ち、イエス・キリストを信じた後、律法の儀式を恋慕って、
律法に戻っていってしまったユダヤ人がいたということです。それは、イエス・キリストの救いを
ないがしろにすることです。完全な救いを否定すれば、のろわれて当然です。
「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵の御霊を侮る」
事だからです(10章29節)。これらのことから、私たちの日々の生活の中で犯す罪咎のことでは
ないことが分かります。もし、日々の罪について言われているのなら、私たちは誰ひとり、
この教会の集会に集まることは出来ません。なぜなら、私たちは信じた時に、聖人に変身したわけ
でもなく、以前の生まれたままの肉と弱さを持って生きている者です。
しかし、キリストは、この罪人をありのままで救って下さいました。だから、罪の根を持っている者
として、依然罪を犯してしまいます。しかしながら、神の御子であられるイエス・キリストは、
「聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うして下さった。」のです。
そして、まことの聖所に入り、大祭司として神の右に着座され、私たちのために「とりなし」をして
下さっており、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救って下さるのです。
ですから、この救いの立場は完全なもので、自分の失敗(罪)によって失われるものでは
ありません。(10章14節)。ところが、これ程の救いをないがしろ(否定)にする人々が
いたのです。その警告のために、ヘブル書がかかれました。
C 私たちは完全な救いを頂いています。しかし、罪を犯さなくなったわけではなく、罪を犯して
しまう者です。ですから大事なのは、罪を犯してしまったなら、主が弁護してくださるのですから、
罪を悔い改め、あやまることです。(第一ヨハネ1:9)
私たちの取りなしは永遠に続いているのですから、全ての罪から赦していただけます。
安心し、感謝しましょう。しかし、こんなすばらしい救いをないがしろ(否定)にしたら、キリストを
もう一度十字架につけることです。その場合は、どんなに重い罰を受けることでしょうか?
(10:29)その事と、罪咎は違います。ですから、私たちの救いの立場は、完全であり、
又私たちの努力は、証のためなのです。こんなすばらしい救いがあるのですから、集まりを止めたり
しないで、これからは、「主のため働かせてください。」と、従って行きましょう。 |
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