@ 今朝は、「信仰の薄い人、なぜ疑うのか」と言われた、不信仰の原因について学びたいと
思います。
A さて、14章から17章までのところで目につく言葉があります。それは、「信仰の薄い人
だな。なぜ疑うのか。」(14章31)。「信仰の薄い人たち。・・・」(16章8)。
「あなたがたの信仰が薄いからです。」、と信仰の薄さを指摘されているみことばが続いています。
私たちは、「信仰が有るのか無いのか?」と問われたなら、「私は、イエス・キリストを信じて
います。」とハッキリと答える事が出来ます。しかし、「信仰が薄いか、厚いか」と問われると、
戸惑ってしまいます。では、どのような信仰を持てば、立派な信仰と言われるのでしょうか。
B そこで、水の上を少し歩いたけれども沈みかけたペテロと、カナンの女の信仰を比較しながら、
考えてみましょう。カナンの女は、悪霊に取り憑かれている娘を癒やしてくれるよう、主に頼み
ました。ところが、異邦人である彼女は、最初から主に拒まれています。それでもなお、彼女は
懇願します。すると主は言われました。「子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは
よくないことです。」。彼女は犬に例えられています。もしプライドを前面に出す人なら、
「私は犬なんですか。ユダヤ人が何よ。それならいいです!」と去っていくのではないでしょうか。
ところが彼女は、「主よ、その通りです。」と認めたのです。その上で、「ただ、小犬でも主人の
食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言いました。彼女は自分の感情を収めて反発せず、
へりくだって、イエス様を主人とし、自分をしもべとしたのです。これは、普段からこの心を
持っていなければ言えるものではありません。というのは、私たちは普段、この世に身を置いて
いますから、この世的な考え方・見方が自然に出てしまいます。また会社にいけば、会社の理念の
中で、一つの歯車として動いています。ですから、常に「御霊の判断に従って行こう・・・」と
思っても、実生活は、知らず知らず、世の考え方に毒されているのです。例えば、聖書の考えに
立つなら、「男は女の頭であり、女は助け手として造られたのであり、女が教えたり、支配したり
することは赦されません。」ところが、一般的なクリスチャンの多くが、「今の時代は・・・」
といって聖書の基準に反発するのです。私たちクリスチャンの立つべき基準は、聖書であり、主の
言葉は、時代が変わっても変わりません。創造主の考えが基準となるのは当然です。私たちの命は
創り主によって造られたいのちですから、創り主の考えに聞き従っていくべきです。そんな中で、
カナンの女は異邦人でしたが、拒否されても反発せず、心を砕いてへりくだる心を持っていま
した。ですから、このことばを言えたのです。一方ペテロは、どうだったのでしょう。彼は、
実際に水の上を歩いたのです。ところが、風を見て怖くなり、沈みかけました。風が強く吹いたら
波が荒れる・・・という世の常識にとらわれ、怖くなったからです。歩き続けるためには、
世の常識に反しても全能の主に対する信頼の心が不可欠だったのです。カナンの女は、
「この方がいいと言われたなら必ずその通りになる。」という信頼の故に、へりくだって願い
続けたのです。ここに、信仰の違いが現れました。
C ペテロと、カナンの女を分けた信仰はなんでしょうか?それは、世の常識にとらわれないで、
創造主から見た判断に立ったことです。全能の主を土台として、主を第一として考える生き方で
す。そのためには、私たちが感情を砕き、絶対者である主に強い心で信頼する信仰が必要です。
そうすれば、その心で私たちは行動します。それが信仰の生き方で、立派な信仰だと言われること
です。主に信頼すれば、主が成し遂げてくださいます。この信頼感を心の土台として、主に従う
素直さを持って生きていきましょう。
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