@ 今朝は、「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。」
(マタイ20:15)と言われたイエス様の御言の意味を考えて行きたいと思います。
A さて、私たちが聖書を読んでいくと、「創造主がそんな乱暴な言われ方をするのかなー?」と
思う御言葉に接します。しかし、そこには、創造主の絶対的な権威にもとずいたおことばであり、
主からのメッセージですから受け留めねばなりません。そして、主が教えようとしている考えを
学び取っていく必要があります。
B では、天の御国の譬えから学んでみましょう。聖書には、天の御国の譬えがたくさん語られて
います。それは、天の父の思いや考え方は、私たちの考え方とは違う事を悟るためです。ここでも、
ぶどう園の主人と、雇われた労務者との関係から、天の父と、私たちの立場の違いが明らかにされて
います。ぶどう園の主人は朝早く出かけていって労務者を雇いに出かけました。そして、一日一
デナリの約束で労務者を雇います。その後、9時、12時、3時、5時と出かけていっては「相当の
ものを上げるから。」と労務者を雇いました。こうして夕方に賃金の支払いをする時、主人は、
最後に来た者たちから、それぞれ一デナリずつ支払いました。すると、朝早くから来た者たちが、
主人に文句を言ったのです。それは、一時間しか働かなかった者たちと同じ賃金だったからです。
彼らは、「自分たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのだから、彼らよりもっと
たくさん貰えるだろうと思っていたからです。・・・」ところが、主人は彼らに言いました。
「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。」と。主権者はどこまでも
主人であって、労務者は、1デナリの契約を交わして雇われた者たちです。ですから、何ら文句を
言える立場ではないのです。この例は、また、創り主と私たちとの関係です。創り主が私たちの体を
形造り、命を与えて下 さった方であるからこそ、私たちが存在します。ですから創り主に対して、
「文句を言える立場ではありません。その通りですね。」と受けとめるのが当然なのです。
例えば、二一章で弟子たちは、つながれているロバの子を連れて来るように言われました。
「もし誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです。』と言いなさい。そうすれば直ぐに渡して
くれます。」と言われましたが、これは、「ロバの子を泥棒してこい」と言われているようなもの
です。「だからできません。」と言うべきでしょうか、それとも、たといどのようになるか分から
ないとしても、主に対する信頼の故に、行くべきでしょうか。
もちろん「そこには、主の御心がある。」と善意の気持ちで行くべきです。そして、その人がロバの
子を連れてこられたら、ますます、主に信頼する信仰が増していくでしょう。
このように、私たちは、自分の考えに反していても、主に信頼するが故に、「はい。」と素直に、
主の主権に従って行くべきです。このへりくだりの心こそ、被造物である私たちにふさわしい生き方
です。なぜなら、主は、すべての主権者であり、すべて所有者だからです。
「だから、自分のものを自分の思いとうり」にできるのです。それが、私たちと、主との関係
であることを認めるべきです。
C 「空っぽの器に油が満たされる。」―これは、私たちの心の中にある、肉の思いを捨て去って
いくなら、そこに油が満たされるということです。ですから、どこまでも聖書に書いてあることを、
そのまま信じて実践していくことによって、御言葉が間違いないことを味わっていく者とされて
いきましょう。 |