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2009年9月20日






『究極的な信仰の歩み』


                 


マタイ10章16〜23節






  

@ 今朝は、究極的な信仰の歩みについて学びたいと思います。

A さて、イエス様は十二使徒たちを遣わすとき、こう言われました。「わたしがあなたがたを

遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。・・・」と。さらに、「むち打たれたり、

支配者たちの前に引き出されたりする。」と。もし、私たちもこのような恐怖心に駆られるような

場面に出くわしたら、ハッキリと「イエスは私の主です。」と言えるでしょうか?何もかも自分の

判断で行動しなければならないとしたら、弱さを持つ私たちは、果たして信仰に立てるだろうかと

不安になってしまいます。しかしイエス様は言われます。「そのような時、どのように話そうか、

何を話そうかと心配するには及びません。話すべき事は、その時示されるからです。
話すのは

あなた方ではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなた方の父の御霊だからです。

と。このみことばによって、平安が来ます。なぜなら、弱い自分自身の判断に根拠を置くのではなく、

私たちの命の創り主にお任せできるからです。これは、何と感謝な事でしょうか!

B では、「父の御霊が話して下さる。」ということについて考えてみましょう。

私たちは、イエス様を信じて心にお迎えしたときから、
主の御霊を持つクリスチャンとなりました。

ですから、私たちの内側から語りかける御霊の声を聞くことが出来ます。ところが、生まれながらの

肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らいます。そこで、自分に都合が悪くなると、御霊の思いを簡単に

聞き流してしまうのです。これまで私たちは、どれだけ聞き流してきたことでしょう。それは、

山積みになって私たちの前にあります。この現実を私たちは安易に考えるべきではありません。

というのは、イエス様は次のように言われているからです。「人の子に逆らうことばを口にする者

でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に

来る世であろうと、赦されません。」逆らうとは、刃向かっていくことであり、攻撃し冒涜すること

です。ですから、聖なる方を汚し、冒涜するなら、赦されることはありません。つまり、完璧に

未信者の気持ちになるということです。イエス様に対して、「悪霊の頭だ。」と口に出して言った者

たちは、御霊に刃向かったから言えたのです。クリスチャンであるなら、御霊の声を聞く特権があり

ます。聞く気さえあればハッキリ分かります。イエス様は、「あなたがたの内にあって話される父の

御霊です。」と言われました。ですから、ただへりくだって、御霊の声を聞いていく事がどんなに

大切か分かります。確かに、御霊の語りかけを無視することも出来ますが、しかし聞くことが出来る

のはクリスチャンの特権なのです。自分自身が判断しなければならないとき、ボヤッとした思いで

判断するのではなく、御霊に聞いて決断するのです。時には、自分の思いや考えとは違っているとき

もあるでしょう。しかし、自分に根拠を於いて判断するのではなく御霊の声に従って判断し、

ハイ、分かりました。」とイエスマンになって、全てのことに御霊の判断に信頼し任せていくの

です。そうすれば、「主が成し遂げて下さる。」のです。

これこそ御霊に導かれて歩む究極の生き方です。


C 「空っぽの器に油が満たされる。」―この意味は、父の御霊に対して、へりくだった素直な心で

イエスマンになっていくことです。不信仰な者には、イエス様は何も出来ないのです。決断を漠然

としたカンに任せず、御霊の声に従って判断していきましょう。これこそが、究極的な信仰の歩み

です。                     


                                        

  
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