『契約の血に預かった者』
マルコ14章22〜25節
@ 今朝は、キリストの契約の血について考え、その契約に預かった者は、どのような生き方を
していくべきか、学んで行きたいと思います。
A さて、私は、イエス様がブドウ酒を血にたとえて、「これはわたしの契約の血です。」と
言われた御言に、心を留めさせられました。契約の血、即ち、血による契約とは何でしょうか。
創世記17章とヘブル書9章11〜22節から、次のことが分かります。まず神は、アブラハムと
契約を結びましたが、それだけではなく、アブラハムの子孫との間に、永遠の契約として立てる、
と言われました。その子孫とはキリストのことです(ガラテヤ3章)。このキリストは、やぎと
仔牛との血によってではなく、ご自分(神の子)の血によって永遠の血による契約を結んで
下さったのです。
B では、キリストの契約の血と私たちとの関わりについて考えてみましょう。
イエス様は、パンを裂いて弟子たちに言われました。「これはわたしのからだです。」と。
それは、神の子が、いのちを裂き、全ての人の罪の償いをなされるしるしでした。ですから、
私たちが、この裂かれた御子のいのちを受け取るなら、私たちの罪の償いのために、命が差し
出されたことを自分のものと出来るのです。私たち人間は皆罪人であり、罪はないと言える者は一人
もいません。だからこそキリストが、聖いご自分のいのちを裂かれ、全ての人間の罪の代価として、
ご自分の命を差し出して下さったのです。ですからこの事を信仰によって受け取るなら、後は、
義とされるだけです。その義とされるために、キリストは、「血によって契約を結んでくだ
さった。」のです。その契約は、「信仰によって義とされる。」という契約です。
これが「契約の血にあずかること」なのです。義とされたなら、私たちは天の御国に行くことが
出来るのです。何と幸いなことでしょうか。私たちクリスチャンは、父の懐に帰る者とされて
いるのですから、これが分かったら、残されたこの地上の生き方を、「もはや自分のためではなく、
自分のために死んで下さったキリストのために生きていく」のです。何故なら、私たちはキリスト
にあって新しく創造された者であり、古い地上の生き方の中に歩む必要がないからです。
私たちは世に対してキリストと共に死にました。
ですから、もはや世の価値観の中で歩む必要はありません。キリストが全てであり、誇るとしたら
キリストの十字架以外にはなく、互いに褒め合ったり、さげすんだり、卑下したりする必要はない
のです。この生き方を実践していくために必要なものは、この事実を受け入れた「砕かれた悔いた
心」だけです。それは、自分は無きに等しい者だと心底分かっている者の心ですから、自分を表そう
としたり、自分をかばおうとすることは、神の御前に愚かで無意味なことなのです。これからは、
キリストと共に信仰によって生きていけばいいのです。これが、キリストの契約の血に預かるという
ことです。
C 私たちは、天に帰って主とお会いしたとき、「良くやった!忠実なしもべよ!」と言われたいの
です。全ての労苦はそれで報われ、私たちは慰められるからです。ジョイフルの子供伝道に踏み
出したことによって祝福を受けているように、ゴスペル・ミッションに踏み出していきたいのです。
モーセのように拒否せず、主の御心なら何でもしますと、肉の心を砕いてやっていきましょう。
私達は、信仰の義を頂いたのですから、後、何が必要でしょうか?肉の人生は終わり、霊の人生を
していくだけです。砕かれた心を持って、主に信頼し、主のために踏み出しましょう。そして、
デカイ教会を築いていきましょう! |
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