『主がほめたたえられるために』
マルコ9章33〜37節
@ 今朝は、クリスチャンはどのような心を持って生きて行けばいいのか、学びたいと思います。
A さて、私たちは子供の頃から、「一生懸命努力して褒められる者となり、父や母あるいは
学校の先生や世間から認められる生き方をしていくことが良い生き方だ。」と教えられてきました。
故に、社会的地位や名誉、あるいは金持ちに成ることを願い、それらを追求していくことが正しい
生き方だと教育されてきました。それを裏返すなら、自分が否定されたり、一生懸命やっても
評価されず認めてもらえないと、生きる希望を無くしたり、耐えられなくなって逃げ出したりして
しまうのです。ところが聖書は、全く反対のことを言っています。即ち、自分が褒められることを
願って生きるのではなく、神が褒められることを願って生きるのが正しい生き方であり、
クリスチャンは、誇るべきではないと。
B では、聖書から学んでみましょう。イエス様は、十二弟子たちが、自分たちの中で、「誰が
一番偉いのか」と論じ合っているのを知って、彼らに言われました。「だれでも人の先に立ちたい
と思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」と。これは、言うなれば
パシリです。又、しんがりとは一番ドベということであり、競技ではみんなに馬鹿にされる立場
です。誰もが成りたくないと思っている立場です。しかしイエス様は、みんなテープを切れ!とは
言われず、「人の先に立ちたいなら、しんがりとなれ!」と、世間とは違う考え方を示されたの
です。それは、イエス様御自身の生き様そのものだったからです。イエス様は、神の在り方を
お捨てになり、私たちと同じ人の形を取られました。それは、私たち罪人の身代わりとなり、
贖いの代価として命を与えるためでした。イエス様の贖いの故に、私たちは永遠のいのちを与えら
れ、父なる神と交わりが回復されたのです。本来の私たちは創り主に罪を犯した者であり、自分の
内側には人に知られたくない、隠して置きたいものばかりで、罪に汚れた者でした。にもかかわら
ず、神に褒められる者になろうとしたり、自分が認められ、褒められることばかりを考えて生きて
来ました。しかし私たちは、創り主の前に生きている者ですから、この方の前で自分を見たら、
誇れるところは一つもない罪人です。ですから、「仕える者、即ち、しんがり」が一番ふさわしい
者です。にもかかわらず、人前に褒められようとするのは間違っています。また、自分が褒められ
ることによって神が褒められるように、と考えることも間違っています。それは自分を偽善者
としてしまうからです。私たちは罪人ですから、たとえ褒められることがあっても、「こんな良い
成績を取らせてくださった主はすごいね。」と主が崇められるように言うべきです。(Tコリント
1章29)。真に褒められるに相応しい方は、創り主であり、イエス・キリストなのです。
C 私たちは百%罪人で、取るに足らない者、無に等しい者でした。しかし、神は世の愚かな者を
選んでくださいました。ですから、「へりくだって仕えていきます。」と、偉ぶらずに、自然体の
心で歩んでいけばいいのです。私たちは千差万別に造られています。出来るところは謙遜にやらせ
ていただき、出来ないところは、祈って助けられていきましょう。人を崇める生き方をする必要は
ないのです。むしろ、主が褒め称えられていくことを求めていきましょう。 |
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