『わざによって信じる』
ヨハネ14章7〜21節
@ 今朝は、イエス様が言われたお言葉―「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが
言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」―と言われた、「わざによって
信じる」ことについて学んでいきたいと思います。
A さて、ヨハネ13章から、最後の晩餐で語られた教えが出てきます。そこで弟子たちは、
16章29〜30節で「ああ、今あなたは、はっきりとお話しになって、何一つ、たとえ話は
なさいません。・・・これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と告白するに
至りました。ところが、弟子たちの告白は、頭だけの理解だったのです。そこで主は、「わざに
よって信じなさい。」といわれ、生きた信仰を求められたのです。
B では、頭だけの観念の信仰から、実感できる生きた信仰へと変わって行く、弟子たちの姿を
見ながら、私たちも実感した信仰の中に歩んでいくことについて考えてみましょう。弟子たちは、
十字架の死を前にして語られたイエス様のことばを、先のことが理解できない弟子たちにとって
は、単なる頭だけの理解にしか過ぎず、イエス様との会話が、かみ合っていませんでした。
それは次の弟子の反応で分かります。「あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たの
です。」と言われた時、ピリポは言います。「父を見せてください。そうすれば満足します。」
それに対して主は言われます。「あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、
父を見たのです。どうして、『父を見せてください。』と言うのですか。・・・」と。イエス様と
父とは一つであると語られていても、弟子たちの心には入っていかなかったのです。それは、
実際に見ていないので、「父ってどんな人かな。」と、聞きながら自分の頭の中で考えてしまい、
信仰によって受け止めることができなかったのです。ですからイエス様は言われます。「さもな
ければ、わざによって信じなさい。」と。確かに弟子たちは、神でなければ出来ないわざをされて
いるイエス様を、目の当たりにしていました。しかし、死んで三日目に甦られたイエス様と会い、
目で見て実感するまでは、彼らの信仰は頭であったのです。このことは、私たちにも言えること
です。というのは、私たちは主に愛され、贖われ、友と呼ばれ、再臨の時には父に紹介され、
天に住まいも用意されている者です。しかし、そんなにすばらしい立場にある者なのに、自分の
目で見、手で触らないと信じられないものがあるのです。それで確信が弱くなってしまうのです。
そこで、「わざを見て信じなさい。」と言われているのです。わざとは何でしょうか。それは、
私たちの命、私たちの体のことです。例えば、口から入った食べ物が、詰まることなく腸を通って
吸収されていきます。それだけでなく、0.01ミリの10万キロ程もある血管なら、どこかかしこで、
詰まってもおかしくありません。なのに、いつも流れ続ける仕組みを見て、創造主の御技としか
言えないものを感じるのです。ですから、自分の体に手を当てた時、そこに主の技を見、
「私はあなたのものです。」と心から言えるのです。この確信から、創造主から出た主の御言葉を
全部信じることができるのです。そして、主の御言葉に立つことができるのです。
C この信仰の故に、私たちは、「聖書に書いてあることは、今日にも起こる。」ことを明かし
する教会として前進していきたいのです。それを成し遂げてくださるのはイエス様です。私たちは
ただそこに向かって、突き進んでいくだけです。「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
創造主は、さらに大いなるわざを現してくださいますから。 |
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