ロマ書6章1節〜2節
@ 今朝は、「罪に対して死んだ者。」の根拠が8章3節にあり、続く4節で‘御霊に従う
中での勝利の歩み“について考えたいと思います。
A まず、6:1節で「恵みが増し加わるために、罪の中に留まるべきでしょうか?」という
問いかけがされているのは何故かを考えたいと思います。それは、5章20節で、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言われているからです。
“恵み”というのは、受ける資格の無いものが受けることです。弱い私たちが、自分の力で
神の律法を守ることは、非常に困難です。むしろ、自分のしたくないことをしてしまうのが
現実です。そんな私達が、恵みによって罪から救われると分かれば、「罪の増し加わる
ところに恵みもあふれる。」となります。すると、ああ、このままで良いのかと思って
しまうのです。なぜなら、「恵みで取り扱ってもらえるのでしょう」と思うからです。
ですから、「この恵みをよりたくさん受けるためには、罪の中に留まるべきなのか?」と
反問しているのです。それに対してパウロは、「絶対にそんなことはありません。」と、
断言しています。
B では、何故罪の中にとどまるべきではないのか、御言から考えてみましょう。
クリスチャンの心には、「神の律法を喜ぶ思いと、罪の律法のとりこ」になっている自分が
あります。この現実はいかんともし難く、お手上げです。しかし、だからといって、そこに
留まっていてはダメだ、とパウロは言っているのです。何故なら、私たちは「罪の対して
死んだ者」だからです。罪に対して死んだ者なら、罪から解放されているのです。しかし
現実には二面性を持っていることも確かなことです。
では、どのようにして解放されたのでしょうか。その答えは8章にあります。3節には、
「神は私たちの罪を帳消しにするために、ご自分の御子を身代わりに裁かれた。」とあり
ます。私たちが存在しつつ、罪を処罰するためにはこれしかありません。ですから、これを
受け入れた者は罪から解放され、いのちの御霊によって歩む者とされたのです。
ですから、肉に従わず、御霊に従って生きていけばいいのです。こうして、御霊のいのちの
原理が、罪と死の原理から解放したのです。
私たちは、御霊で生きていく時、肉の思いを嫌いますし、罪の中に留まりたいとは思いま
せん。また、御霊の思いで満たされているときは、肉の思いのことは忘れてしまいます。
ですから、この御霊が力強く働いて下されば肉のことはどうでもよくなってしまうのです。
こうして、現実に、13節の御言「御霊によってからだの行いを殺して生きる。」という
ことが起こってくるのです。ところが、今の私たちの現状は、罪に対して死んだ自分と、
罪の律法のとりこになっている自分の両面があります。そんな中で、御霊の働きよりも、
周りや肉の影響を受ける方が強いのです。ですから、御霊の豊かな活動が起こってくること
が必要なのです。
C 私たちは、肉と御霊という両面を持っていて不自由を覚えます。
しかしそれは、私たちがへりくだった心を持つためです。もし、へりくだって自分の罪を
認め、御霊の助けと御霊の満たしを求めていくなら、主は罪からの勝利を味わわせてくだ
さるのです。ですから私たちは願います。「私たちは神の律法の中に歩みたいのです。
へりくだりますから、御霊で満たしその中に浸からせ、御霊の活動をいっぱい起こして
下さい。」と。今は終わりの時、御霊の満たしを受けて証をしていく時代です。今こそ
聖霊を受け、力強く証していきましょう。 |
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