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2008年4月27日





『どちらに転んでも』
                                    



マルコ11章20節〜25節






@ 今朝は、真理の二面性に立ち、主に信頼していく心を学んでいきたい。

A さて、イエス様はここで、「信仰の通りになれ。」と言われ信じて疑わずに求める

なら、その通りになると教えています。エリコの盲人は、諦めずに「ダビデの子のイエス様、

私を憐れんでください。」と叫び続け癒されました。これは、信じて願うならその通りに

なるという真理の現れです。ところが、祈りにはもう一つの逆の面もあります。元々祈りの

動機は、困ったときに不安や恐れを持った時に助けを願って祈るものです。ですから、

当然「大丈夫かな。」という不安と恐れが心の動機となります。ですから、初めから信じて

祈ろうというのではありませんから、「どうか、どうか。」となってしまうのも真理です。

このように、イエス様がおっしゃることは、当然真理ですし、また、私たちの側から見た

見方も真理です。この場合両方とも真理には間違えがないことですが、だからと言って

私たちの我を通すことは出来ません。では、このように両方とも真理である場合、私たちは

どのように判断して行ったら良いのでしょうか。

B さて、このような場合、まず私たちがへりくだって、自分の主張を捨てて、主の

言われる真理に立つべきです。例えば、親子関係を例にとって見るなら、親は自分の考え

通りに子どもに命じ、その通りにしなければ叱ります。ところが子どもは、親のロボット

ではないと思って、親に縛られるのを嫌います。確かにお互いの立場から見るならば、

どちらの言い分も真理です。しかも創造主も、両方を認めてくださっています。ですから、

親に対して、「子供を怒らせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」また、

子供に対しては「全てのことについて、両親に従いなさい。」と言われています。だから

仕方なくイヤイヤ従うというのではなく、創造主は私たちのことを理解して下さっている

のですから、子供は、自分の意志でイヤだという気持ちを砕き、親の満足するように

やっていこうとするなら平安が来るのです。これまで私たちは、創造主は、一つの真理を

通される方だと考えていましたから、無理矢理自分の考えを押さえて、主の考えに合わそう

としていました。そして、悶々としていたのです。しかし主は、どちらのことも分かって

いてくださるお方ですから、主の御前にあって判断し、また選択していけばいいのです。

ここでイエス様は弟子たちに、「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると

信じるなら、そのとおりになります。」と言われました。これを聞くと私たちは、疑って

しまう自分を見て、「疑ったらダメか、疑ったらイカンぞ。」と思って、次に進めなくなって

しまうのですが、イエス様は、罪人である私たちには疑う部分もあることをご存知なのです。

C では、私たちはどのように判断したら良いのでしょうか。

もし、「疑ってはいけないから疑わない。」と考えると、悪魔は「それでやっていける

のか?」と揺さぶってくるでしょう。
しかし、どちらの考えも真理だと肯定するなら、

揺さぶられません。片方を正とする律法では悪魔のワナにかかってしまいます。

両方を正しいと肯定するなら、悪魔の突っ込みはありません。主の前にへりくだり、自分の

意志で気持ちを変えていくからです。「どちらに転んでも受けていきます。」という心です。

ですから、妥協でも敗北精神でもありません。むしろ、前向きで積極的な精神なのです。

この
真理の二面性を受け入れへりくだって、この真理の中に生きていきましょう。






    


                                        

  
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