『立場をわきまえた単純な信仰』
ルカ7章2〜10節
@ 今朝は、百人隊長の御言に対する確信の信仰について考えてみたいと思います。
A さて、当時のユダヤ人は、異邦人とは交わることをしませんでした。それは、創造主を証し
していく選民として、異邦人の影響を受けることなく純潔を守るためでした。
ですから、異邦人である百人隊長のために、ユダヤ人の長老たちがイエス様の所に来て、百人隊長
のしもべの癒しを願うということはめったにないことでした。しかし、この百人隊長は、ユダヤ人
のために会堂を建てた人でしたので、おそらく、ユダヤ教への改宗者だったのではないかと思われ
ます。そんな中にあって、イエス様が、長老たちと共に百人隊長の家に向かわれたのは異例のこと
でした。
ところが、百人隊長は、イエス様が家からほど遠くないところに来られたときに、彼は友人たちを
使いに出して、イエス様に伝えたのです。「主よ。わざわざおいで下さいませんように。
ただ御言葉を頂かせて下さい」と。長老たちを遣わした積極的な行動とは対照的な、控えめな
言い方をしています。
B では、百人隊長の言葉に表されている彼の信仰と、イエス様の対応についてみてみましょう。
彼は言います。「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、
私の方から伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」と。ここには、彼の異邦人としての自分の立場を
わきまえた、へりくだった心を見ることが出来ます。しかも、控えめな言い方ではありますが、
ちゃんと願い事をしているのです。「おことばだけを下さい。そうすれば、しもべは癒されます
と。彼は、軍隊の中の一軍人として、上官の命令は絶対でした。彼も、自分の下にいる兵士に
対して、「行け。」と言えば行くし、「来い。」と言えば来るという中に生きていました。即ち、
「ことば」通りになるということです。まして、全能主ならばそのおことば通りになり、
しもべはいやされると彼は信じていたのです。ですから、「おことばを下さい。」と言ったのです。
この彼の信仰に対して主は、異邦人でありながら、「立派な信仰だ。イスラエルの中にも見たこと
がない。」と喜ばれました。同じような場面が5章にも記されています。全身ライ病におかされて
いた人は言いました。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と。この求めに
対してイエス様は、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われてライ病人は癒やされたのです。
両者とも共通して言えることは、求める資格のない異邦人と、汚れたライ病人の彼らが、立派な
信仰を表したことです。「主のお心なら必ず成る・・・」と単純に信じていたのです。
この全き信頼こそが主に受け入れられ、そこに大いなる御業が表されるのです。
C 万物は、主の「ことば」だけで造られました。ですから、「主のことば」はその通りになる
のです。しかし、主に願うことには二つのことが必要です。何でも自分の思い通りにしたいという
ワガママで求めるのではなく、主の主権を認め、本気で任せていくへりくだった控える心が
必要です。それは、自分の計算や損得で求めるのではなく、主の主権を認めて、与えると言われた
主の言葉をそのまま信じる心です。もう一つは、遠慮せずに信頼して求める心です。その時主は、
「あなたの信仰があなたを癒やしたのです。」と言ってくださるのです。この自分から出た信仰が
必要なのです。新しい年は、これまで蒔いてきたものを収穫する年となるでしょう。そして、
祝福から祝福へと満たしてくださるでしょう。「主に大胆に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
―「主のことばは成る。」この確信から新年を始め出しましょう。 |
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