① さて、私たちの教会は、これまで「砕かれた悔いし心」をテーマとして学んできま
した。なぜなら、これはクリスチャンとしてどうしても理解しなければならないポイント
であり、ここに立てば、クリスチャン本来の生き方を味わうことが出来るからです。
そして、この学びはクリスチャンならだれでも理解できるものと思っていました。
ところが、実際は、頭では理解しても、心が付いていかないという人が多いという事が
分かって来たのです。その理由を今日、共に考えたいと思います。
② では、ここで語られている放蕩息子と、横道にそれることなく父親に仕えてきた兄息子
から、そのヒントを見ていきましょう。まず弟は、父親に財産の分け前を貰うと、さっさと
家を出て、放蕩三昧のあげく湯水のように財産を使い果たしてしまいました。そして、
食べるにも事欠く惨めな境遇に落ちて、豚の餌のいなご豆でさえ貰えないというひもじさの
中に置かれたのです。そのドン底で彼は我に返り、決心したのです。「恥も外聞もない。
ただ父の所に帰ろう。そして心からあやまろう。」と。この放蕩息子の心の動きは万人に
通じると思っていました。ところが、子供の頃から培われたプライドの故に、どんなに辛酸
をなめても、家に戻って「赦してくれ」とは、とても言えないという人もいることが分った
のです。その人たちに共通して言えることは、「たとい挫折をしても、挫折として認められ
ないプライドがあり、自分のプライドを守ることで生きていける」と考えている人がいると
言うことです。しかし、私たちの命を創られた創造主は、私たちが弱く情けない、ありの
ままの自分を認める「砕かれた悔いた心を軽しめない。」と言って下さっているのです。
即ち、惨めな姿で帰って来た弟を受け入れた父親のように、私たちが「砕かれた悔いし心」
を持って、主に還ることを喜んでくださるのです。兄は自分の正しさを主張し、父に文句を
言いました。そんな彼に対して父親は、「お前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と。この
兄のプライドこそ、砕かれた心を妨げるものです。私たちの父は、この兄のプライドを捨て
て、へりくだって「砕かれた悔いし心」を以って、主に向かえば、軽しめられることはない
といわれるのです。
③ では、なぜ私たちの心には、頭で理解しても、心でそれを受け入れてはいけないという
思いがあったのでしょうか。それは、「自分の惨めさを認めたら、終わっちゃうぞ!」という
悪魔のだましを聞いていたからです。そして私たちは、「正しい自分でないと、主に受け
入れてもらえない」と思っていたからです。しかし、たとえ兄息子のように、正しさを主張
しても、所詮アダムの罪の子です。ですから、自分が貧しく、取るに足りない者であること
をそのまま認めるしかないのです。もし罪を犯したなら、プライドを残さず、無条件で
丸まる全部悔い改めるなら、主の赦しが丸々やってくるのです。この「砕かれた悔いた心」
こそ、クリスチャンの本来の生き方であり、祝福の始まりなのです。 |