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2007年7月8日



   『聖なる者とされた』



第Tコリント1章1〜3節



@  今朝は、「キリスト・イエスにあって、聖なる者とされた者」であることを、信じて歩む

生き方について、学びたい
と思います。

A さて、パウロはコリントのクリスチャンたちに「聖徒として召され、キリスト・イエスに

あって聖なる者とされた方々へ。」と語り始めます。しかし、この書簡の内容から見るとき、

本当にコリントの人々が聖なる人々なのかと疑ってしまいます。と言うのは、コリントの人たち

は信じてからも退廃的なギリシャ文化の影響の下で、罪の習慣の中に歩んでいたからです。

ですから、「肉に属する人々だ」と言われているのです。にもかかわらず、パウロは、

「聖徒として召され、聖なる者とされた方々へ」と、肯定的に語りかけています。どうして、

そのような言われ方をしたのでしょうか?その真意を考えてましょう。

B では、「聖徒として召され、聖なる者とされた」と言われる理由について考えてみましょう。

6章9〜11節には、「以前は不品行や偶像礼拝など多くの罪の中に歩んでいた者ではあった

が、主イエス・キリストの御名と御霊によって洗われ、聖なる者とされて、義と認められたの

です。」ところが、現実の彼らの内に聖なる者とされていることを見ることはできません。

それを実感できるのは、主の再臨の時でしょう。それまでは、この罪の体を持って歩まねば

なりません。しかし、「弱い罪人だから・・・。」といって、信じる前の生き方で良い訳では

ありません。ヘブル書では、「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を

見ることができません。」と言われているのです。即ち、この世での私たちの歩みは、聖めら

れることを求める生き方をするのが、創造主の私たちへのメッセージなのです。私たちは創造主

のために存在している者ですから、創造主の意図に従って生きて行くのが当たり前です。

ですから、以前からの悪習慣を脱ぎ捨てて行くべきなのです。そうしなければ、ただの人の

ように、未信者と同じように歩んでいくことになるからです。

C ではどうしたら良いのでしょう。それは、自分自身が聖なる者とされていることを信じる

ことです。そうすれば、聖なる者とされたというイメージの高い生き方をしていくことが出来る

からです。ところが、負け犬根性が染み付いている人は、古く低いイメージを、後生大事に

抱え込んで、「自分はダメな人間だから・・・」と、わざわざ暗いイメージの中に留まって

しまうのです。これは、聖なる者とされたということを信じていない姿です。確かに私たちは、

過去においては取るに足りない者、見下されている者、ダメ人間でした。ところが
今、全世界を

お造りになった創造主の聖なる子として迎え入れられたのですから、創造主の子としての生き、

歩んで行くべきなのです。この素直な心、信頼する心、純粋な心を持ち、創造主の子である

という高いイメージと気品を持って生きていけばいいのです。私たちが、聖なる者とされたこと

を心に入れて生きていくならば、そういう行動が出てくるのです。これが「信じる」ということ

なのです。


D パウロがコリントのクリスチャンたちに、「聖徒として召され、聖なる者とされた。」と

語り始めたのは、この意識から出ることがないようにと願ったからです。私たちも、聖なる者と

された生き方の中に、罪から離れた主の御心の生き方があるのです。この能動的な生き方をして

いきましょう。



    


                                        

  
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