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2007年6月24日




 『聖められる事を追い求めない』


ヘブル書121417




@ 今朝は、「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができま

せん。」と言わた「聖められる事」について考えたい
と思います。

A さて、律法は、年ごとにいけにえを献げましたが、それは罪が思い出されるだけで、罪を除き

去る事は出来ませんでした。それは、罪の債務の利息を支払っただけで元金が残っていたからです。

しかし、イエス・キリストは、ただ一度、御自身というささげものによって、完全に罪を除き

去ってくださいました。それは利息だけではなく、元金も全て支払ってくださったからです。

しかもそれは、イエス様以前の人々の借金もすべて全部です。さらに、私たちの過去・現在・未来

の罪の借金の全て全部です。実に、一つのささげものによって、完全に、しかも永遠に全うして

くださったのです。ですから、私たちが罪を犯したとき、それを認めて謝るなら、その罪を赦して

くださるばかりか、全ての罪からも聖めてくださるのです。

 それは、キリストが、父の御前で私たちの弁護をしてくださるからです。故に私たちは、

はばかることなく父の御前に出る事が出来ます。それによって、私たちは聖なる者とされている

現実を味わうことが出来るのです。ですから、「聖められることを追い求めなさい。」と言われて

いるのです。

B では、「聖められる」とはどういうことなのか考えてみましょう。私たちは生きている限り

自分の肉を持っていますから、生まれながらの肉の性質から出てくる弱さを痛感しています。

それは死ぬまで続きます。それでは、この生まれながらの弱さ、まつわりつく罪にただ、敗北して

いくだけなのでしょうか。いいえ、そうではありません。121節ではこう言われます。

「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって

走り続けようではありませんか。」と。又こうも言われています。「あなたがたはまだ、罪と

戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(4節)。まつわりつく罪とは、生まれ

ながらの、どうにもならない罪です。それがあることを先ず認め、この罪をあきらめずに主の元に

持って行くのです。そうすれば、完全に贖って下さった主が、信じた後の罪に対しても、あり

余る程の罪の代価をすでに払っていて下さっているので、その借金も払ってくださり、父に取り

なしてくださるのです。これが聖められることを求めることです。ところが、「私は出来ない。」

と自分の中にうずくまって戦おうとせず、誰かが助けに来てくれるのを待つだけで、自分では前に

進み出そうとしない逃げ腰では、どうにもなりません。それは、主への心を表そうとせず、自分と

他人に甘え、創造主の恵みを全部風呂敷に包んでいる信仰のない状態です。確かに今は、聖なる者

とされた事実を見ることは出来ません。だからといってやる気を失い、出来ることしかやらない

というのでは、聖められる事を求めている姿ではないのです。信仰とは、目では見ていなくても、

聖なる者とされていることを信じて行動を取っていくことだからです。この、忍耐をもって走り

続ける行動こそが、聖められる事を求める姿なのです。

C 私たちの体は、主の日に、完全に御霊の体に変えられます。その時、聖められた姿を見るの

です。
私たちの教会は、「聖書に書いてあることは今日にも起こる。」と信じているからこそ前に

向ってひたすら走り続けてきました。今、さらに、創造主には限界がないことを確信し、

そのパイプを強くして前進していきたいのです。歩みを止めようとする罪は、まつわりついてき

ます。しかし、それに捕らわれず走り続けていきたい。私たちが本当に願っているものは、今日も

起こるという主の御業ですから。信じて祈っていきましょう。
 


    


                                        

  
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