@ 今朝は、私たちが創造主とのタテの関係に堅く立ち、それを基準にして歩んでいけばいいこと
を学びたいと思います。
A さて、ガラテヤの教会には、異邦人のクリスチャンたちに割礼を強制する人々がいました。
ところが、「人は割礼によっては人は救われることはできない」ので、キリストが、ご自分の命を
引き替えに十字架にかかって贖いをして下さったのです。このことをパウロは宣べ伝えていました。
しかし、ユダヤ人にとっては、割礼は律法を守る最低条件であったので、信じた異邦人にも強制
したのです。だが、パウロは割礼を受ければ、キリストの十字架を無にすることになるので、
強力に反対しました。ところが、反対すればユダヤ人の反感を買うことになり、信仰に入った
ガラテヤ人は、ユダヤ人からの迫害を恐れて、割礼を受けようとしていたのです。そういう訳で、
割礼を受けようとしていた人は、キリストの十字架のためにユダヤ人から迫害を受けたくない為に、
キリストよりも、ユダヤ人との横の関係を大事にしようとしていたのです。そこで、パウロは、
横の関係よりも、キリストに堅く立つ縦の関係を大事にするように、彼らに語っています。
B では、その理由について考えてみましょう。14節で語っています。「世界は私に対して
十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられた。」と。これは、信者にとって世は
死んだものであり、自分自身も死んだ者だから、私達の生き方は、世との横のつながりで生きて
いくのではなく、ただ、創造主によって造られた新しい命の中に生きていけばいいのだ、と語って
いるのです。確かに私たちは、御霊によって、新しい命の中に入れていただきました。ですから、
肉に従って歩む責任を負ってはいません。(ロマ8章12)。つまり、人のつながりの中に生きる
者ではなく、横の関係に価値を置いた古い生き方を捨てて、御霊によってただ創造主に従って生き
ていけばいいのです。それは、人の顔色を見て生きる生き方ではありません。それは、人から助け
て貰いたいとか、人によく思われたいとか、人から慰められたいという思いを捨て、ただ創造主に
頼って生きていくことです。この創造主との関係がハッキリすると、「創られた者に過ぎない
私たちが自己主張はしておれないな」と分かってきます。ですから、パウロは、この基準に従って
歩むようにと勧めているのです。
C 創造主は、キリストの命丸ごと私たちに下さいました。
ですから私たちは、丸ごと救われたのです。故にこの方に、本心で向って行くのは当然です。
これが分かると、私たちは、創造主のお役に立つ生き方をしたくなります。そして、横の世の
つながりは、ただで受けた者として、見返りを求めないアガペーの愛(一方通行の愛)を人々に
注いで行けばいいという生き方になるのです。私たちは、イエスの焼き印を押された者ですから、
創造主のものです。だから、この基準に従って進もうではありませんか。
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