@ 今朝は、山頂で語られたイエス様のメッセージを、ロマ書の真理に照らしつつ見ていきたいと
思います。そして、私たちに与えられている幸いを味わいたいと思います。
A さて、私たちは聖書を読む時に、それは「私たちに語られていること」、という認識の上で読
すいくん
んでいます。 山頂の垂訓と言われるイエス様の教えに対しても、その通り聞いてその通りやって
行きたいと思うものです。 しかし、現実に、これを実践して行けるほど、強い人間ではありませ
ん。しかも、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがた
は決して天の御国に、はいれません。」 と言われています。さらに、律法の真実の意義が解き明か
されていくに従って、絶望的になり、「自分にはとても出来ない。」と、止めを刺されてしまい
ます。では、どうしたらいいのでしょう。私たちは、とてもイエス様のことばをそのまま守って
いくことができません。弱い罪人は、御国に入れないのでしょうか。いいえ、それはイエス様の
真意ではありません。なぜなら、イエス様は「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために
来たのです。」と仰ったからです。だから、私たちは、正しく理解する必要があります。
真理に
は二面性があるからです。
B そこで、イエス様がパウロを通して語られたロマ書を見てみましょう。 3章21節に、
「しか
し、今は、律法とは別に、神の義が示されました。」それは、「イエス・キリストを信じる信仰による
神の義」であり、「全ての信じる人に与えられるもの」とあります。確かに神は、私たち人間に律法
を与えられました。それは、律法によって罪の意識が生じ、私たち人間は、神の裁きに服する者で
ある事を明らかにするためです。しかも神は、心の中に沸き起こってくる怒りや、腹ただしさに
対しても、神の裁きがあることをイエス様は示されました。だから、私たち人間は、何の言い訳も
出来ない者であり、ただ神の裁きに服するだけの者なのです。
ところがイエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来
たのです。」と言われ、その御言通り、十字架の贖いによって律法を完全に成就され、終わらせら
れたのです。それによって今は、私たちが義と認められるのは、「律法の行いによるのではなく、
イエス・キリストを信じる信仰によること」となったのです。ですから、この立場に立って、マタ
イ伝5章を読んでいけば、絶望のふちに沈みこんでしまうことはないのです。しかも、私たちは
神と和解させられ、神の怒りから救われているのですから、この恵みを感謝しつつ、イエス様の
教えに近づいて行きたいと思うのです。
C 私たちは、5章を読んで、自分の幸いな立場、恵みが良く分かります。「こんな罪深く、情けな
い者であっても、イエス様の故に天に行けるのだ。」と。分かるからです。だからこそ、少しでも
世の光・地の塩としてイエス様のメッセージに近づいて行きたいと思います。
また、天の御国に入れられた者として、少しでも柔和な心を持って、人々にキリストの恵みを証し
して行きたいと思うのです。イエス様は、私たちが神の栄光を表すために、一生懸命
御心の中に
生きて行くことを願っておられます。ですから、残りの生涯を、キリスト一筋に生きて行きましょ
う。
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