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2004年9月5日

                                                                                 
「私たちの義は?」

マタイ5章1〜26節

                        

@ 今朝は、山頂で語られたイエス様のメッセージを、ロマ書の真理に照らしつつ見ていきたいと

思います。そして、私たちに与えられている幸いを味わいたいと思います。



A さて、私たちは聖書を読む時に、それは「私たちに語られていること」、という認識の上で読
        すいくん
んでいます。 山頂の垂訓と言われるイエス様の教えに対しても、その通り聞いてその通りやって

行きたいと思うものです。 しかし、現実に、これを実践して行けるほど、強い人間ではありませ

ん。しかも、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがた

は決して天の御国に、はいれません。」
と言われています。さらに、律法の真実の意義が解き明か

されていくに従って、絶望的になり、「自分にはとても出来ない。」と、止めを刺されてしまい

ます。では、どうしたらいいのでしょう。私たちは、とてもイエス様のことばをそのまま守って

いくことができません。弱い罪人は、御国に入れないのでしょうか。
いいえ、それはイエス様の

真意ではありません。なぜなら、イエス様は「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために

来たのです。」と仰ったからです。だから、私たちは、正しく理解する必要があります。
真理に

は二面性があるからです。



B そこで、イエス様がパウロを通して語られたロマ書を見てみましょう。 3章21節に、 「しか

し、今は、律法とは別に、神の義が示されました。」それは、「イエス・キリストを信じる信仰による

神の義」であり、「全ての信じる人に与えられるもの」とあります。確かに神は、私たち人間に律法

を与えられました。それは、律法によって罪の意識が生じ、私たち人間は、神の裁きに服する者で

ある事を明らかにするためです。しかも神は、心の中に沸き起こってくる怒りや、腹ただしさに

対しても、神の裁きがあることをイエス様は示されました。だから、私たち人間は、何の言い訳も

出来ない者であり、ただ神の裁きに服するだけの者なのです。

 ところがイエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来

たのです。」と言われ、その御言通り、十字架の贖いによって律法を完全に成就され、終わらせら

れたのです。それによって今は、私たちが義と認められるのは、「律法の行いによるのではなく、

イエス・キリストを信じる信仰によること」となったのです。
ですから、この立場に立って、マタ

イ伝5章を読んでいけば、絶望のふちに沈みこんでしまうことはないのです。しかも、私たちは

神と和解させられ、神の怒りから救われているのですから、この恵みを感謝しつつ、イエス様の

教えに近づいて行きたいと思うのです。



C 私たちは、5章を読んで、自分の幸いな立場、恵みが良く分かります。「こんな罪深く、情けな

い者であっても、イエス様の故に天に行けるのだ。」と。分かるからです。だからこそ、少しでも

世の光・地の塩としてイエス様のメッセージに近づいて行きたいと思います。

 また、天の御国に入れられた者として、少しでも柔和な心を持って、人々にキリストの恵みを証し

して行きたいと思うのです。イエス様は、私たちが神の栄光を表すために、一生懸命 御心の中に

生きて行くことを願っておられます。ですから、残りの生涯を、キリスト一筋に生きて行きましょ

う。 


                      

                               

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