@ 今朝は、イエス様が、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことが
ありません。」と言われた、百人隊長の信仰の心について学びたいと思います。
A さて、イスラエル人は、神に一番近くにいた信仰の民であったのに、皮肉にも異邦人である
あつ
百人隊長の方が、「イスラエル人よりも篤い信仰だ。」と誉められているのです。それは、何故
でしょう。イエス様は、彼のどこに目を留められたのでしょうか。
私たちは、彼の信仰を具体的に知る事によって、自分自身の信仰に足りない所は何かを、考えて
いきたいと思います。
B では、百人隊長の信仰について見てみましょう。 彼は「自分は権威の下に服する者です。」
と言っています。事実彼は、兵士としてローマ皇帝に忠実に仕え、命令に対する絶対的服従を
訓練されてきた人です。もし上官に命令されるならば、自分の感情や自分の考えに立たず、忠実
に命をかけて服従してきました。 上に立つ者にはその権威が与えられているからです。 秩序と
統率の無い軍隊では、力を発揮して戦いに勝利することはできません。ですから、彼は命令
(言葉)一本で従う事を長年訓練されてきましたから、上からの言葉はそのままであると、身に
染み込まされて来ました。その上、彼にも部下がおり、彼の命令一本で忠実に、言葉通りに働く
兵士を持っていました。ですから、彼はイエス様に、 「ただ、おことばをいただかせてくださ
い。」と言ったのです。 彼がそう言ったのは、文字どうりイエス様を権威あるお方と認めていた
でしょう。確かに、弟子たちや他のユダヤ人たちも、イエス様を権威あるものとして認めていたで
しょう。しかし、それはモーセのような解放者としての人間の権威でありました。 ところが百人
隊長は、イエス様は皇帝以上の方、すなわち、神としての絶対的権威を持つお方として見ていた
のです。ですから、「お言葉だけで十分です。」と答えたのです。イエス様は、どんなことでも、
私たちが「神の御言葉は、その通りになる。」という信仰を持って従うことを願われるので、
この百人隊長の信仰を誉められたのです。
C もし、私たちも、イエス様を絶対的権威者として、はっきり認識しているなら、もっとはっ
きりした従い方をするのではないでしょうか。 百人隊長のように権威者に従うことが当たり前に
なっているなら、従う世界と、従わない世界の二つを併せ持つ事はしません。もし、「自分が
嫌なら従わない」というなら、自分が一番上の権威者になるのです。私たちが、百人隊長のよう
な心を身につけていくなら、自ら進んでイエス様一本で、仕えて行こうとする献身の道に進む
はずです。そして、私たちが、自分自身をイエス様の栄光のために用いられたいと心を定め、
百人隊長の信仰に習うなら、イエス様は、私たちを高い信仰のレベルに引き上げて下さいます。
そうすると、イエス様の行なわれる素晴らしい御業を見て、父なる神を褒め称えていく者となる
でしょう。私たちの願いが、神の御業をつぶさに拝して、喜んでいく者でありたいなら、この
百人隊長の信仰に習って、イエス様に答えていく者とされて行きましょう。
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