「肉の性質を越える信仰」
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マタイ26章36〜46節
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@ 今朝は、イエス様がゲッセマネの園で3度祈られた事を通して、イエス様が肉の心のもだえを、
霊の心に変えていかれた事を見て行きたいと思います。そして信仰とは、自分の肉のワク(枠)を
超えていく事であることを学びましょう。
A さて、イエス様は、ご自分の受難の事を四度語られています。それは、ご自分が地上に来られた
ことによって、苦しみを通るということを知っておられたからです。にもかかわらず、十字架を目前
もだ
にされた時、悶え苦しみ、「悲しみのあまり死ぬほどです。」と、その恐怖に、おののいて居られた
のは、一体、何故でしょうか。神の御子であるイエス様が・・・。しかし、それはイエス様が、
私たち人間と同じ肉を取られ、神のあり方を捨てられたからです。
B では、神の御子であられるイエス様が、私たちと同じ肉をもってゲッセマネの園で三度の
祈りをされたことについて考えてみましょう。人間の肉を持つという事は、アダムから受け継いで
いる罪の人間性をも持つという事です。しかし、或る神学者の言うように、イエス様の誕生の瞬間に
罪の性質が聖められ、罪のない方になったとするならどうでしょう。イエス様がこの地に来られた
もだ はず
目的は十字架に付く事なのですから、その時を目前にして、恐怖に動揺したり、悶えたりする筈が
ありません。どんな苦しみも超越できたはずです。ところがイエス様は、血の汗を流すほどに
祈られたのです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、
わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と。
この祈りの中に、私達と同じ人間性を持たれたイエス様の心のうめきと、神の御子としての思いが
あります。もしイエス様が完璧な肉をもっておられたならば、悲しみもだえて、汗を流して祈る必要
も無かったでしょう。確かにイエス様は、母マリヤの肉を持たれ、私たちと同じになられました。
しかし、罪を犯されなかったが故に、私たちの罪の贖いをする事ができたのです。また、これほど
もだ
悶え苦しまれたのは、私達と同じ肉を持たれたからであり、それは、正に私たちの受ける苦しみ
そのものだったのです。これこそが私たちの身代わりであり、罪に打ち勝たれたイエス様である
あがな
からこそ、おできになった贖いなのです。主はこの決断の前に、「どうしても飲まずには済まされぬ
杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください。」と、三度の祈りをもって、自分の持っている
肉のワクを超えて、父の御心に立つことの模範を示されました。それは、正に息を引き取る前に
「完了した。」と言われたイエス様は、罪深い肉と同時に、神の子としての心を持っておられた
りり
イエス様の凛々しい姿があったからです。ですから、主は私たちと同じようになられたからこそ、
私たちの模範となる事がおできになり、心を変えて「あなたの御心のとおりなさってください。」
と祈られたのです。イエス様は、人間と同じ性質を持っておられましたが、肉の性質を超えて
いかれたのです。
C ですから、私たちも肉に留まって、肉で勝負してはいけないのです。信仰によって、肉の性質を
超えて踏み出していくなら、新しい世界を味わうようになるのです。
神は私たちが、イエス様を見習って、自分のワクから出て、なりふり構わずにやって行くことを
望んでおられるのです。
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