「肉の姿をとられた神の御子」
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使徒3章12〜19節
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@ 今朝は、私たちの救いの確信は、イエス様の復活にあり、肉を取られたイエス様の内に、
真理の二面性が存在していたことを学んでいきたいと思います。
A さて、ペテロを初め弟子たちは、イエス様が十字架にかけられた時、イエス様を見捨てて逃げて
しまいました。彼らはイエス様に対して失望し、信頼を失ったのです。ところが、甦られたイエス様
よみがえ
に会った時から変わりました。それは、イエス様が甦ったのは、まことに神の子であるということを
知ったからです。特に、聖霊の満たしを受けてからは、イエス様の復活の証人として力強く働き始め
ました。ペテロは人々に向かって言いました。「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせまし
た。私たちはそのことの証人です。」と。この大胆な確信に満ちた言葉に、生涯命を懸けてキリストの
証人となっていくのだ、という迫力を感じさせられます。この弟子たちの変化は、どこから出た
ものでしょうか。それは、イエス様にある二面性から出てきた変化なのです。
B では、イエス様にある二面性とは何かについて見てみましょう。
まず聖書は語ります。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる事ができない
とは考えないで」と。これは、キリストが神であられたのに、同時に、神のあり方を捨てられた人間で
あることを明言しています。即ち、イエス様の中に、完全な神であるイエスと、私たちと同じ罪深い
肉の性質をマリヤから受け継いだ、相反する二つの性質を持っておられたということです。(ロマ
8:3) 神の御子がどうして罪深い肉を取らなければならなかったのでしょうか。それは、
さば あがな
私たち人間がアダムの血と肉を持っており、その罪の裁きから私たちを贖うためには、私たちと同じ
血と肉を持たねばならなかったからです。ですから、処女マリヤを通して誕生されたのです。
その時から、肉を持っているが故の制限を味わわれました。私たちと同じように苦しまれ、十字架の
死を前にしては「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われたのです。しかしイエス様は、
罪深い肉を取られましたが、それに打ち勝って、従順を学び完全な者とされました。ですから、私た
ちの身代わりとして死ぬことがおできになり、私たちの罪の贖いをする事ができたのです。
ところが、ある神学者は、イエス様の誕生の瞬間に罪の性質が聖められ、罪のない方になったと主張
します。もし、完全な人であったと言うなら、その人は人間ではありません。苦しみに対しても超越し
ており、恐れもなかったでしょう。実に私たちとはかけ離れた方となり、私たちの苦しみも悲しみも
味わうことなく、理解する事も出来なかったことでしょう。しかしイエス様は、私たちと全ての点で
同じように試みに会われ、私たちと同じ血と肉を持たれたお方であったからこそ、私たちの身代わ
りになることがおできになったのです。
C ペテロや弟子たちは、三年間イエス様と生活を共にしました。人の形を取っておられる中にも、
神の性質を見ていました。ところが、捕らえられた時、ただの人間と見て、失望してしまったので
す。しかしイエス様の復活によって、確かにイエス様は神の子であり、十字架は私たち人間の罪の
贖いのためだったと分かったのです。ですから、彼らの救いの確信は、キリストの復活にあり、
肉の姿をとられたイエスこそ、キリストであると大胆に証しを始めたのです。
彼らはこのように罪深い肉をとられたイエス様の内に、神の御姿を見ていたのです。
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