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2004年2月8日 |
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ざま 「クリスチャンの生き様」 |
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ルカ23章1〜25節 |
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@ 今朝は、イエス・キリストを死刑に定めたピラトの裁判から、神の前に生きるクリスチャンの 生き様について考え、学んでみたいと思います。 A さて、ユダヤの祭司長、律法学者たちは、なんとしてもイエスを死刑にしたいと考えていまし た。ですから、イエス様を捕え、ユダヤ人議会で裁判した後、ローマ総督であるピラトの前に連れて ぞっこく 来たのです。当時ローマの属国であるイスラエルには、死刑にする権限がなかったからです。 ところがピラトは、「この人には何の罪も見つからない。」と三度も無罪の宣告をしたのです。 にもかかわらずピラトは、その日の内に自分の主張を翻し、イエスキリストを十字架につけるために 引き渡したのです。この心変わりの原因はどこにあったのでしょうか。 B では、ピラトの裁判を見て見ましょう。ユダヤ人の指導者たちは次のように訴えました。 「この 人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っている」 と。しかしピラトは、ローマの総督として、三年半のキリストの活動の見て、人々を扇動し、ローマに 謀反を企てるような意思はないことを知っていました。そればかりか、キリストは同胞のユダヤ人 たちに対して、彼らの罪を指摘し、手厳しく悔い改めを迫っていたのを知っていました。ですから ピラトは、ユダヤ人がキリストへの恨みから殺そうと企んでいたことを見抜いていたのです。しか し、あくまでも「十字架につけろ。」と叫ぶ指導者たちの声に屈服し、イエスを十字架につけるために 引き渡してしまったのです。無罪の者を有罪にし、真実を曲げることは恐ろしい事です。彼の心にど んな思いが働いたのでしょうか。それは、自分自身を守ろうとする強い思いです。「もしイエスを殺さ なければ、ユダヤ人の反感は自分に向かって来るだろう。そんなことになれば、安定した支配は出来 なくなり、厄介なことになる。それは御免だ。」と、自分を守るに都合の良い道を選択したのです。 それは、神の子を十字架につけて、自分自身を永遠の命にふさわしくないものと定めた行為だった のです。 私たちも同じような状況に立たされる時があります。例えば、目先の結果を得たいがため に、筋を通してやるという困難な道を避け、要領よくごまかしてやっていこうとすることです。 確かに、筋を通してやろうとするなら、一時不利になることがあるでしょう。しかし、神の前にごま かさずに忍耐し、信頼し続けるなら、信仰は増していくのです。そしてそこに、信じるものに働く神 の全能の力が働くのです。ですから、「強くあれ、雄々しくあれ。」といわれているのです。 C 私たちは今、聖書の時代と同じように、神の働かれる全能の力を味わいたいと願っています。 それは、自分を守った小細工や要領のよさからは生まれてはきません。ピラトは、一時はユダヤ人の 感情を治めて、人気を得ました。しかし、永遠の滅びの選択をしたのです。私たちも、人間的な 要領よさで自分を守ろうとするのではなく、勇気ある選択をして、神から来る幸いと祝福を味わっ ていきましょう。 |
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