『不敬虔な者でも』
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「アブラハムは自分の妻サラのことを『これは私の妹です。』と言ったので、
ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」(創20:2)
前回のエジプトの地に入った時に、パロ王にサラを妹と偽って、妻を裏切ったアブラハムは、心に
言い知れぬ痛みを味わいました。なのに今回、又ゲラルの地に来て、自分の妻のことを妹と偽ってし
まいました。もし、アビメレクの側室となり、サラを失うことになったら、「来年の今ごろ、男の子が
与えられる。」と言われた約束はどうなったことでしょう。アブラハムは、実に、自分の身を守るため
に、二度までも卑劣な手段を取りました。
しかし、こんなアブラハムが信仰の人と言われたのは、「アブラハムが行いによって義と認められ
た」からではありません。「不敬虔な者を義と認めて下さる方」を信じた、その信仰が義と認められ
たからです。(ロマ4:5) 同じように、私たちのような不敬虔な者でも、神は義と認めて下さる
のです。すなわち、私たちも失敗だらけの者で、とても聖徒と呼ばれるにふさわしい者ではありませ
あがな
ん。 しかし、神はキリストの贖いによって義と認めて下さるのです。そんな神を私たちも信じまし
た。だから、神は人の肉の行いを見られるのではなく、その人の不動の信仰をみられるのです。私たち
は、「不敬虔な者でも、義と認めて下さる方がいる」という不動の信仰の故に、アブラハムの信仰にな
らう者とされているのです
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