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2003年11月16日 |
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「アブラハム、最大の試練」 |
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創世記22章1〜14節 |
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@ 今朝は、神様からの試練に対するアブラハムの対応を通して、心を開いて従って行く事を学び たいと思います。 A さて、アブラハムの生涯のクライマックスは22章です。神はアブラハムに対して、「あなたの愛 している独り子イサクを、全焼のいけにえとして捧げなさい。」と言われました。神の約束の子で あるイサクは、アブラハムにとって唯一の希望であり、全てでありました。彼を失うことは、生きる 力を失うことです。ところが神は、絶対に嫌だと思うことを命じることによって、アブラハムが本当 に従がって来るかどうかを試されたのです。「嫌なことは嫌。」、「出来ないものは出来ない。」と心を 閉じて従おうとしない者を、神はご自身の働きに用いることは出来ないからです。アブラハムは、 その試練に勝利しました。神に対し、心を開いたからです。 B では、“心を開く”ことについて考えてみましょう。「開かれた心」とは、〔信ずる心〕〔砕か れた悔いし心〕であり、〔へりくだった心〕であります。クリスチャンなら誰でも、イエス・キリスト を信じた時その心を持ったはずです。へりくだって罪を認める開かれた心が無ければ、信じること は出来ないからです。しかし、信じた後に、私たちはその心を忘れてしまったのではないでしょう か。信じた時には、「神の前には、信じる心だけでいいんだ。」と分かったのです。それは、罪人 を救ってくださる神は、人間の頭の善し悪しや、性格の善し悪しなどで評価される方ではないから です。しかし、クリスチャンが何年経っても成長しないのは何故でしょうか。それは、昔のままの心で クリスチャン生活を送っているからです。自分にとって嬉しい時や、得になること、出来ることに 対しては心を開いてやって行こうとします。しかし、自分にとって嫌なこと、又出来ないと思うこ と、そして嫌いな人には、心を閉じてしまい、素直に聞いてやって行こうとしないからです。あたか も自分の権利であるかのように、心を自分の思うままに開け閉めし、使い分けているのです。 もし それで良いのなら、アブラハム対して、このような試練に合わせる必要は無かったでしょう。 しかし 神は、私たちがいつも心を開いて、嫌なことも、出来ないと思うことも、度ごとに心を開いてやって 行こうとする心を願っておられるのです。そうしなければ、救いに預かることはできないのは言う までもなく、神の真理を学び、味わい、成長していくことが出来ないからです。 C 私たちは、神に用いられたいと思ったのですから、自分の成長を妨げている自分の“こだわり” や、“自分を守る心”を捨てましょう。そして、常にへりくだって心を開き、主に従う心を持って生 きていきましょう。そういう人は、神の前に生きて行きますから、人の顔色を見たり、自分の愚かさや 恥を隠す必要も無く、平安な生き方ができるのです。アブラハムは、心を開いて神に従ったために 祝福されました。私たちもアブラハムの信仰に倣って、開かれた心を持って従って行きましょう。 |
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