Q&Aコーナー
教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


このホームページの掲示板にこれまでに寄せられた様々な質問を、

その返答と共にまとめ、ピックアップしたコーナーです

  
NO.2 NO.2






  牧師として個人的には、不安はあっても、すべて主に委ねてやっています。

不安は、どんな人間にもあります。もしないと言えば、罪がないというのと同じで、

(第一ヨハネ一章八節)自分を欺くことになります。

しかし、信仰は、私たちの頭だけの知識ではありませんから、実際の生活に、

信仰をそのまま適用してやっています。

そうでなかったら、信じた意味がないからです。 

   
聖書には 

 


 これは綺麗事ではありません。わたしは実際に40年間その通りやってきました。

そして、今の今まで、この言葉通り支えられてきました。実は蓄えは一つもありません。

しかし、子ども4人は大学に進み、その時その時の必要は、すべて与えられてきました。

時には、何百万円という必要があった時も、その時その時主は、与えて下さいました。
                        ・   ・   ・   ・   ・   ・  ・  ・  ・  ・
 私たちの教会は、自分の生活のためには借金はしないという聖書の御言葉に立っています。

(ローマ書13章8節) だから、教会も、個人も借金はしません。

必要なものは、祈って与えられるまで待ちます。

即ち、聖書に書いてある通り、そのまま実践してやっていこうとしています。

それが通用するかどうか、これまでの40年間試してきました。

これからもそのようにしていくつもりです。

 つまり、クリスチャンは、御言葉を信じてイエス様を信じた者ですから、御言葉を信じて、

その通り実践していかなければ、信じた意味がないと思っています。

それは、いつも信仰が試される日々です。しかし、人間的に心配して、自分の思い通りするより、

遙かに考えられない恵みを受けてきました。今なお、毎月それを味わっています。

必要なものは、毎月与えられるお給料を遙かに超えて、主は与え続けて下さっています。


 それは、御言葉の約束だからです。

私たちは、先のことを心配しても限りがありません。心配すれば、するほど、増えていきます。

それより、主に委ねて、先ず神の国と神の義を第一にして下さい。私たちがそのことの証人です。

御言葉を信じないなら、何を信じたらよいのでしょうか?世の中の不安は増すばかりです。

切りがありません。ですから、クリスチャンは、今できること また、今すべきことに集中していきます。

なぜなら、

 即ち、私たちは、自分のために生きていないのです。

私たちには、キリストの命丸ごと引き替えにして、永遠の命が与えられました。

ですから、それ以上何が必要なのでしょうか?

永遠の命を頂いたものは、天上の体が与えられ、律法が心の中に置かれ、罪は一切思い出されず、

聖なる者とされて、イエス様と共に、父なる神の御国で永遠に生きる者とされたのです。ですから、

この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのが、

クリスチャンの歩みであり、また喜びです。信仰は、御言葉を実践していく挑戦です。


    どうか、少しでも、御言葉の約束を信じて、試して下さい。

           そこから来る主の恵みと、平安を味わって、

     不安から解消されるように心から祈ります。



NO.2 NO.2

                    掲示板に下記のような投稿が寄せられました。

                  それに対する牧師のアドバイスを、ご紹介いたします。




 いつもホームページを読んでいてくださるそうですが、ありがとうございます。

さて、お尋ねの件ですが、本来なら、あなた様の牧師にお聞きになるのが筋で、一番いい

ことと思いますが、あえて、私どもの考えを投稿させてもらいます。これは、あなた様の

魂の見張り役をしている者の言葉ではありませんので、ただの参考までと言う気持ちで

お聞き下さい。

 まずは、
仲の良いご夫婦のようで、その祝福がいつまでもあるように祈ります。

人間の肉の性質は、死ぬまで付き合わなければなりません。

クリスチャンといえども、肉の性質がなくなるわけではありません。

寧ろ、クリスチャンは、イエス様を信じたときに、御霊を宿す者になりましたので、

未信者の方々よりやっかいな戦いが起こってきます。それは、御霊の思いと肉の思いが

戦い、自分のしたいことが思うように出来ないからです。これは、クリスチャンの宿命

です。だからと言って、私たちは、肉に妥協したくありません。クリスチャンは、御霊に

導かれて歩む者です。ですから、肉の思いは退けていきます。そうでないと、信仰の筋を

通して行くことが出来ないからです。この点においては、妥協の出来ないところです。

 ところが、現実の問題として、私どもの肉は、死ぬまでなくなりません。

それは、死ぬまで付き合っていかなければならないものです。

もしこの肉を無視し、押さえつけていけば、必ず、反逆してきます。

その力は、押さえ付ければ押さえつけるほど、激しさをましてきます。

そして、一歩間違えると、肉の思いが、御霊の思いに勝り、信仰さえ捨て

かねないのです。それほど肉は、反逆してきます。この現実を知らない

クリスチャンだった方々が、どれほど多くいらっしゃったことでしょうか?

多くの人びとが、この戦いに負けて、未信者同然の生き方をしている、かつてのクリス

チャンであった方々が多いと思います。そこで、私たちの私的意見ですが、考えを述べ

たいと思います。

 まず霊的に優先すべき事はキチンと行ない、決して妥協せず、

(通読、集会出席、先ず、神の国と神の義を求める)その上で、

上手に肉の求めも十分満足させてやることです。そのためには、お金も

使ってもいいでしょう。肉は、中途半端にすると、図々しくどこまでも求めてきます。

ですから、肉の満たしは、中途半端にせず、遊ぶときは、目一杯遊ぶのです。そして、

肉が十分満足すれば、今度は、御霊の求めに対して、妨げられることはないでしょう。

そうすれば、肉に妨げられずに、霊の求めに心を集中していくことが出来ます。

クリスチャンは、とかく律法主義になりがちで、肉を押さえ付けて行くことが、霊的な

クリスチャンだと、錯覚してしまいます。そして、自分で自分をコントロールできずに、

倒れていく人が多いのです。



 私は、ご主人と一緒に少しばかりのお酒を共にたしなまれたらいいと思います。

お酒を飲むことは罪ですか?イエス様は、お酒を飲んでいらっしゃいませんでした

か? ブドウ酒はお酒ではないのですか? ブドウ酒は、悪ですか?

カナの婚宴で、イエス様は水をブドウ酒にされて祝福されたではありませんか?

確かにお酒は、度を超すと放縦のもとになります。

しかし、クリスチャンは、もはや放縦の道に歩みたいとは考えて

いません。寧ろ、神の栄光を現わしていきたいといつも考えて

いる者です。それなら、お酒も放縦のために用いず、慶びのために

用いることが出来るのではありませんか?  

 もし、奥様が、ご主人とわずかばかりのお酒を共にできれば、
よろこ
慶びを共にすることになりませんか?そうすれば、ひとり寂しく飲ん

でおられるご主人が、どれほど喜ばれることでしょうか?

人には、肉があることを知ってください。その上で、その肉と上手に付き合っていく

ことは、クリスチャンとして、霊に堅く立っていくために必要です。

おそらく、今回の問題は、奥様の内に、クリスチャンの陥りやすい律法主義が入り、
     がんじがら
自分自身を雁字搦めにしたことが原因なのではないでしょうか?

 私たちは、信仰の妥協はしたくありません。しかし、行き過ぎた正義感は、決して、

主の御心ではありません。それで人を裁くことは、なおさらのことです。クリスチャン

の陥りやすい罠に、気をつけてください。その上で、賢い判断をされることをおすすめ

します。         

  手短にお答えさせていただきましたが、あなた様の牧師と考え

  が違う場合がありますので、どうか、ご自分の牧師に相談し、

  お確かめなさることをおすすめします。

  それでは、ご主人と新しく加えられたお子様の上に、 
        
  主の祝福がありますように!





NO.2 NO.2






 投稿有り難うございます。早速ですがご質問に答えていきたいと思います。

 聖書にこうあります。



 さて、私たちの肉の感情は、御霊に逆らいますから信仰を妨げ、主の御心に従って

歩んでいきたいと思う心に挑んできます。しかしながら、感情が、即罪ということでは

ありません。霊的な感情はイエス様も表しておられました。ですから、御霊の働きを

妨げる感情は、よくないということです。私たちは、自分の感情が霊的な感情か、

肉的な感情かをどのように判断したらよいのかと迷います。しかし、一つはっきりと

言えることがあります。私たちが、主のために生きていきたいと考えているのなら、

聖霊の働かれる生き方をしたいということです。聖霊の働かれないところには、何も

起こりません。救いも起こりませんし、主の栄光も現されません。

  ですから、私たちが主に用いられたいと思うなら、聖霊の働かれる

生き方をしたいと思うのではないでしょうか。逆に言うと、聖霊の

働きを妨げる生き方、考え方は、肉の感情であるということです。

ですから、その肉の感情は、退けていくべきです。

しかし、これは、決して律法ではありません。いくら肉の感情を退けていったとしても、

心からでなく、「しなければいかん」では、必ず爆発するからです。この選択は、キリ

ストを愛するが故に「そのようにしていきたい」というところから始まらなければいけ

ないのです。

     聖書に、


 とあります。

  要するに、本当にキリストのために生きていきたいかどうかということです。

キリストのために本当に生きていきたいと思うなら、自分の肉の感情にも左右されない

でしょう。そして、主の御心に従えば、霊の感情は大いに喜ぶことでしょう。

その感情は、罪でも何でもないはずです。御霊の声を聞くということは、この肉の感情を

明け渡すということではないでしょうか?


  手短にお答えしましたが、この先は、ご自分の牧師に相談される

ことをおすすめします。あなた様に霊の幸いが注がれますように、

お祈りいたします。









NO.2 NO.2




 教会のホームページをご覧下さりありがとうございます。

早速ですが、お返事を差し上げます。あなた様は、クリスチャンではないということ

ですが、それでも教会のホームページをご覧下さったことを知り、深刻なお気持ちの

一端を推察致します。

  さて、結論から申し上げますが、私は、無理なさらない方がいいと思います。

信仰の世界にとって義理とか義務感はむしろ妨げになると思います。

私どもの教会では、たとえクリスチャンであっても、義務感からでた奉仕は、お断り

しています。よく教会では献金のアピールがあります。そんなとき、あるクリスチャン

は義務感で献げられることがあります。しかし、その献金が義務感からでたものなら、

決して主に喜ばれません。ですから、教会ではそのニュアンスが

分かった場合には、お返ししています。イエス様は、施しをする

とき「人に褒められたくてしてはいけません。」と言われました。

信じる行為は、自分の心の中からの真実でなければいけないのです。

ですから、ましてクリスチャンでもない場合、義理や義務感でクリス

チャンの真似をなさるのは、お互いのために良くないことと思いま

す。そして、それは主に喜ばれることではありません。


  以上の観点から、あなた様へのアドバイスとしては、決して無理なさらないこと

をお奨めいたします。しかしながら、あなた様が本気で教会に行かれることを嫌って

おられたのなら、教会のホームページをご覧頂くことはなかったと思います。

おそらく、ご主人がクリスチャンであること、又お姑様方がクリスチャンであること

に、何かうらやましいものをお感じになっておられるのではないでしょうか?

今は、イエス様への信仰というものが、どういうものなのかが、心で理解できない

ために、皆さんと心が合わせることができなくて、苦しんでおられるのだと思います。

私には、そのお苦しみが良く分かります。もし、ご自分も信じたいという気持ちに

なり、信じることが出来れば、ご家族の方々と心を一つにすることが出来、そうでき

ればそれに越したことがない。とお思いかと察するのです。

  ということは、クリスチャンが何故イエス様を信じて、それほどまでに

信仰を大切にするのかが理解できれば、そのときには、あなた様も義務感

ではなく、自分から進んで教会に行きたくなると思います。それまで、

少しでもクリスチャンの信仰を理解していただくために、私どものホーム

ページなどがお役に立てれば幸いに思います。

 一つだけ最後に、聖書のメッセージをお伝えして、メールを終えたいと思います。


 それは、人間の命は、「偶然に出来るところは一つもない。」ということです。

又、自分の命を自分で造ったところも一つもありません。私たちの命の仕組みは、

秩序正しく造られた叡智の塊りです。しかも、生きるための食物から、生きていくため

の自然環境まで、すべて整えられて生かされているのではないでしょうか。人間の血管

は、体の中に地球二回り半もの長さの血管が仕舞い込まれています。


しかも、0.02ミリの毛細血管には、体中に

酸素を運ぶ赤血球や、からだを外敵から守る

ための白血球などが、夜通し流れ、働いている

のです。この血管は、詰まることも、もつれる

こともなく、針の穴よりも小さな穴の中を、毎日血液を流し続け、60兆に及ぶ細胞

に栄養を送り続けているライフラインなのです。そればかりか、神経、リンパ管が

体中に張り巡らされているのに、決して混線していないのです。誰が、こんな仕組み

を設計し、管理しているのでしょうか。

  実に、当たり前のことが、当たり前ではないことを知っていただ

きたいのです。こんな仕組みの命は、人間には、絶対に出来ません。

ですから、私たちがこの命の創造主を信じるのは、当然だと思うのです。

しかし、私たちは、この命の主に感謝をしないどころか、自分の命は、

自分のものだから、自分の思いどうりに生ても当然だと感じているのです。

そして、人間はしてはならないことを勝手にして、その当然の報いを受けて苦しんで

いるのです。イエス様は、そんな私たちの罪を消すために、罰を身代わりとなって

受けて下さるために、創造主から遣わされてきたのです。

何故なら、

どうか、あなた様の命の救いのために来られたイエス様に目をお留め下さい。

  もし、なお関心を持っていただけるなら、引き続きホームページをご覧下さり、

少しでもあなた様の命の尊さを知っていただけたらと思います。そして、命の主の

愛に触れていただければ、私どもの喜びとするところです。長い投稿をお許し下さい。

少しでもお心が軽くなればと投稿しました。お役に立つことを、お祈りしつつ。



NO.2 NO.2




 ホームページをご覧下さりありがとうございます。早速ですが、お答えしたいと

思います。人が若いときに、イエス様を信じて、永遠の命に預かられたということ

ほど、すばらしいことはありません。

 なぜなら、私たちにとって永遠の命を頂いたら、後何が必要でしょうか?

それに変わるものは、何もないはずです。ですから、それ以後の残された生涯は、

キリストのために、何が出来るか?というのが私たちのこころの関心事です。

 ですから、キリストを信じる者たちは、この動機から必然的に

集まり、共に祈り、共に主の教えを学んで、御心の中に歩もうと

します。それは、キリストのために生きたいと思うからです。

だだ、信じたからといって皆同じ心、同じ考えをもてるわけでは

ありません。何故なら、クリスチャンとして生きていくとき、

未信者時代の物差しは通用しないからです。

クリスチャンはキリストの物差しで生きていかなければなりません。

  
しかし、私たちは、生れながらの物差しはあっても、キリストの物差しは、新しく

学んでいかなければ分からないものです。それは、聖書を学ぶと同時に、具体的に

体験しながら学んでいくものです。ですから、先輩のクリスチャンたちから学んで

いくものが多くあるのです。そういう意味で、信じたものが、一つに集まり、互いに

励まし合っていくことは、メリットのあることです。

 聖書には、このようにあります。


  と勧めています。

ただし、聖書はいつもそうですが、決して強制はしてはいません。

「ありませんか。」と私たちに促しているのです。何故なら、自発的なものでなけ

れば、「信仰」とならないからです。それが、圧力になったとき、私たちの信仰は、

義務感になり律法主義になってしまいます。律法主義からは、信仰が失われていく

だけです。おそらく、あなた様は、自発的な信仰から離れてしまったのではないで

しょうか?信じた初めの頃は、行けと言われなくても自分から進んで教会に行き

たいと思っておられたのではないでしょうか?しかし、救われた頃の初めの愛が

だんだん冷めていくことは、よくあることです。何故なら、クリスチャンとして

歩む生き方が分からず、未信者時代の物差しで歩んでしまうからです。すると、

キリストを信じてはいても、その歩みは未信者と同じになってしまうのです。

すると、知らないうちに永遠の命の価値が分からなくなってしまうのです。

又祈っていても、何も起こらないという失望の中にはまります。
それは、不信仰になっているからです。

信仰のないところには、何も起こりません。


  
以上のことから、まず、あなた様にお勧めしたいことは、信仰は、頭だけのこと

ではないと言うことです。信仰は、キリストのために生きる命がけのことです。

ですから、教会に行くというのは、牧師のメッセージを聞きに行くというよりも、

キリストのために生きる証の行動であり、主を礼拝する具体的な行動なのです。

というわけですから、あなた様にとってふさわしい教会が必ずあるはずですから、

主に祈って教会を探して欲しいと思います。それは、私たちの残さ

れた命を、創造主の栄光のために燃焼して欲しいからです。あなたの命は、世の初め

から、キリストの内に選ばれた、尊い永遠の命なのですから。

短い限られた文章では、十分なお答えが出来ませんが、

あなた様の疑問に少しでも参考になればと思います。

どうか一つのアドバイスとして、お含み下さい。

それでは、あなた様に、主の顧みと祝福がありますように

祈りつつ。







NO.2 NO.2




  早速、ご相談にお答えします。

 クリスチャンであられると言うことですので、創造主(神)の目から見た判断で

お答えしたいと思います。まずは、お子様が授けられ、おめでとうございます。

 さて、子供の命は創造主からの授かり者でありますが、それ以前に、人の命は、

創造主の手による驚くべき設計と叡智による組み立てによって

存在し、生かされています。決して、親が造った者でもなく、

偶然に母の胎から生まれ出た者でもありません。デザインの

あるところには知性があり、人格者がいます。ですから、

お子さんの命の出所は、叡智に満ちた創造主からでています。

このお方は、全てを知り尽くし、私たちの複雑な命の仕組みを造り保っていて下さるの

です。ですから、私たちの苦しみも、悲しみも、祈りも全部聞いてくださっています。

だから、私たちの命に関しては、人間がコントロールできませんので、私たちの命の主

である父にお任せしていくべきです。

 すなわち、お子様の将来、また成長は、人間の手に委ねられているよう

に見えますが、実際は、人間の思う通りには一つも行きません。その証拠

に、現在のご夫婦の仲は、悪いと言われていますが、夫婦仲が悪くなるの

を願って結婚する人は、一人もいないはずです。即ち、大人である自分のことさえ

思い通りに行かないのですから、なおさらのこと、人格の違う、お子様の行く末も

思い通りになるはずがありません。

ですから、二歳足らずのお子様の将来のことまで考えるのは、如何なものでしょうか?

それは、まさに、思い煩いというもので、まして、命の主であるお方の計画に、割って

入る不信仰な行為ではないでしょうか。

 今、心にある雑念は、お子様を自分の思い通りに育てようと考える、

創造主に対する、思い上がりと、不信仰の何ものでもないと思います。

ですから、全てを主の手にお委ねして、今、母として出来るお子様への

援助の手(子育て)を差し伸べて行かれれば十分ではないでしょうか。

先のことは、命の創り主の計画があるのですから、信頼してお任せしていけば十分

です。私たちの子育ては、人並みに育てることではありません。創り主から賜った

命は、創り主のお考えに従って育てていくことです。人並みに育ててはいけないの

です。ただ、託された命ですから、たとい貧しい家庭の中に育とうが、卑屈に育てない

ことです。そのために必要なのは、親の信念です。貧しさは、不幸ではありません。

むしろ子供をたくましくします。そこに、主がおられますので、主がその子供の心を

守ってくださいます。ですから、すべてお母様のひたむきな信仰にかかって

いるわけです。

テモテさんのお母様のように、お父さんがギリシャ人の異教徒であっても、

純粋な信仰を宿していました。それは、母ユニケのうちに宿っていたものが受け

継がれていったのです。ですから、自信を持って、主の前に歩んでください。

主に心が向けば、平安が返ってくるはずです。そして、自分から、家を出ることは

考えないでください。なぜなら、

  この特権を失ってはいけません。

どうか、主が、あなたの心を強くされ、その信仰の故に、平安をお与え下さいます

ように祈ります。以上手短に、アドバイスをさせていただきましたが、出来れば、

早いうちに、あなたの魂の見張りをしておられる、ご自分の教会の牧師にご相談

されることをお勧めします。主の平安がありますように!


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室