![]() ![]() |
![]()
![]() |
このホームページの掲示板にこれまでに寄せられた様々な質問を、 その返答と共にまとめ、ピックアップしたコーナーです。 |
![]() ![]() ![]() ![]() |
これは綺麗事ではありません。わたしは実際に40年間その通りやってきました。 そして、今の今まで、この言葉通り支えられてきました。実は蓄えは一つもありません。 しかし、子ども4人は大学に進み、その時その時の必要は、すべて与えられてきました。 時には、何百万円という必要があった時も、その時その時主は、与えて下さいました。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 私たちの教会は、自分の生活のためには借金はしないという聖書の御言葉に立っています。 ![]() (ローマ書13章8節) だから、教会も、個人も借金はしません。 必要なものは、祈って与えられるまで待ちます。 即ち、聖書に書いてある通り、そのまま実践してやっていこうとしています。 それが通用するかどうか、これまでの40年間試してきました。 これからもそのようにしていくつもりです。 つまり、クリスチャンは、御言葉を信じてイエス様を信じた者ですから、御言葉を信じて、 その通り実践していかなければ、信じた意味がないと思っています。 それは、いつも信仰が試される日々です。しかし、人間的に心配して、自分の思い通りするより、 遙かに考えられない恵みを受けてきました。今なお、毎月それを味わっています。 必要なものは、毎月与えられるお給料を遙かに超えて、主は与え続けて下さっています。
それは、御言葉の約束だからです。 私たちは、先のことを心配しても限りがありません。心配すれば、するほど、増えていきます。 それより、主に委ねて、先ず神の国と神の義を第一にして下さい。私たちがそのことの証人です。 御言葉を信じないなら、何を信じたらよいのでしょうか?世の中の不安は増すばかりです。 切りがありません。ですから、クリスチャンは、今できること また、今すべきことに集中していきます。
即ち、私たちは、自分のために生きていないのです。 私たちには、キリストの命丸ごと引き替えにして、永遠の命が与えられました。 ですから、それ以上何が必要なのでしょうか? 永遠の命を頂いたものは、天上の体が与えられ、律法が心の中に置かれ、罪は一切思い出されず、 聖なる者とされて、イエス様と共に、父なる神の御国で永遠に生きる者とされたのです。ですから、 この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのが、 クリスチャンの歩みであり、また喜びです。信仰は、御言葉を実践していく挑戦です。
|
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() 投稿有り難うございます。早速ですがご質問に答えていきたいと思います。 聖書にこうあります。
さて、私たちの肉の感情は、御霊に逆らいますから信仰を妨げ、主の御心に従って 歩んでいきたいと思う心に挑んできます。しかしながら、感情が、即罪ということでは ありません。霊的な感情はイエス様も表しておられました。ですから、御霊の働きを 妨げる感情は、よくないということです。私たちは、自分の感情が霊的な感情か、 肉的な感情かをどのように判断したらよいのかと迷います。しかし、一つはっきりと 言えることがあります。私たちが、主のために生きていきたいと考えているのなら、 聖霊の働かれる生き方をしたいということです。聖霊の働かれないところには、何も 起こりません。救いも起こりませんし、主の栄光も現されません。 ![]() ですから、私たちが主に用いられたいと思うなら、聖霊の働かれる 生き方をしたいと思うのではないでしょうか。逆に言うと、聖霊の 働きを妨げる生き方、考え方は、肉の感情であるということです。 ですから、その肉の感情は、退けていくべきです。 しかし、これは、決して律法ではありません。いくら肉の感情を退けていったとしても、 心からでなく、「しなければいかん」では、必ず爆発するからです。この選択は、キリ ストを愛するが故に「そのようにしていきたい」というところから始まらなければいけ ないのです。 聖書に、
とあります。 要するに、本当にキリストのために生きていきたいかどうかということです。 キリストのために本当に生きていきたいと思うなら、自分の肉の感情にも左右されない でしょう。そして、主の御心に従えば、霊の感情は大いに喜ぶことでしょう。 その感情は、罪でも何でもないはずです。御霊の声を聞くということは、この肉の感情を 明け渡すということではないでしょうか? ![]() 手短にお答えしましたが、この先は、ご自分の牧師に相談される ことをおすすめします。あなた様に霊の幸いが注がれますように、 お祈りいたします。 |
![]() ![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
![]() ホームページをご覧下さりありがとうございます。早速ですが、お答えしたいと 思います。人が若いときに、イエス様を信じて、永遠の命に預かられたということ ほど、すばらしいことはありません。 なぜなら、私たちにとって永遠の命を頂いたら、後何が必要でしょうか? それに変わるものは、何もないはずです。ですから、それ以後の残された生涯は、 キリストのために、何が出来るか?というのが私たちのこころの関心事です。 ですから、キリストを信じる者たちは、この動機から必然的に ![]() 集まり、共に祈り、共に主の教えを学んで、御心の中に歩もうと します。それは、キリストのために生きたいと思うからです。 ![]() だだ、信じたからといって皆同じ心、同じ考えをもてるわけでは ありません。何故なら、クリスチャンとして生きていくとき、 未信者時代の物差しは通用しないからです。 クリスチャンはキリストの物差しで生きていかなければなりません。 しかし、私たちは、生れながらの物差しはあっても、キリストの物差しは、新しく 学んでいかなければ分からないものです。それは、聖書を学ぶと同時に、具体的に 体験しながら学んでいくものです。ですから、先輩のクリスチャンたちから学んで いくものが多くあるのです。そういう意味で、信じたものが、一つに集まり、互いに 励まし合っていくことは、メリットのあることです。 聖書には、このようにあります。
と勧めています。 ただし、聖書はいつもそうですが、決して強制はしてはいません。 「ありませんか。」と私たちに促しているのです。何故なら、自発的なものでなけ れば、「信仰」とならないからです。それが、圧力になったとき、私たちの信仰は、 義務感になり律法主義になってしまいます。律法主義からは、信仰が失われていく だけです。おそらく、あなた様は、自発的な信仰から離れてしまったのではないで しょうか?信じた初めの頃は、行けと言われなくても自分から進んで教会に行き たいと思っておられたのではないでしょうか?しかし、救われた頃の初めの愛が だんだん冷めていくことは、よくあることです。何故なら、クリスチャンとして 歩む生き方が分からず、未信者時代の物差しで歩んでしまうからです。すると、 キリストを信じてはいても、その歩みは未信者と同じになってしまうのです。 すると、知らないうちに永遠の命の価値が分からなくなってしまうのです。 ![]() 又祈っていても、何も起こらないという失望の中にはまります。 ![]() それは、不信仰になっているからです。 信仰のないところには、何も起こりません。
以上のことから、まず、あなた様にお勧めしたいことは、信仰は、頭だけのこと ではないと言うことです。信仰は、キリストのために生きる命がけのことです。 ですから、教会に行くというのは、牧師のメッセージを聞きに行くというよりも、 キリストのために生きる証の行動であり、主を礼拝する具体的な行動なのです。 というわけですから、あなた様にとってふさわしい教会が必ずあるはずですから、 主に祈って教会を探して欲しいと思います。それは、私たちの残さ れた命を、創造主の栄光のために燃焼して欲しいからです。あなたの命は、世の初め から、キリストの内に選ばれた、尊い永遠の命なのですから。 ![]() 短い限られた文章では、十分なお答えが出来ませんが、 あなた様の疑問に少しでも参考になればと思います。 どうか一つのアドバイスとして、お含み下さい。 それでは、あなた様に、主の顧みと祝福がありますように 祈りつつ。 |
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() 早速、ご相談にお答えします。 クリスチャンであられると言うことですので、創造主(神)の目から見た判断で お答えしたいと思います。まずは、お子様が授けられ、おめでとうございます。 さて、子供の命は創造主からの授かり者でありますが、 ![]() 創造主の手による驚くべき設計と叡智による組み立てによって 存在し、生かされています。決して、親が造った者でもなく、 偶然に母の胎から生まれ出た者でもありません。デザインの あるところには知性があり、人格者がいます。ですから、 お子さんの命の出所は、叡智に満ちた創造主からでています。 このお方は、全てを知り尽くし、私たちの複雑な命の仕組みを造り保っていて下さるの です。ですから、私たちの苦しみも、悲しみも、祈りも全部聞いてくださっています。 だから、私たちの命に関しては、人間がコントロールできませんので、私たちの命の主 である父にお任せしていくべきです。 ![]() すなわち、お子様の将来、また成長は、人間の手に委ねられているよう に見えますが、実際は、人間の思う通りには一つも行きません。その証拠 に、現在のご夫婦の仲は、悪いと言われていますが、夫婦仲が悪くなるの を願って結婚する人は、一人もいないはずです。即ち、大人である自分のことさえ 思い通りに行かないのですから、なおさらのこと、人格の違う、お子様の行く末も 思い通りになるはずがありません。 ですから、二歳足らずのお子様の将来のことまで考えるのは、如何なものでしょうか? それは、まさに、思い煩いというもので、まして、命の主であるお方の計画に、割って 入る不信仰な行為ではないでしょうか。 ![]() 今、心にある雑念は、お子様を自分の思い通りに育てようと考える、 創造主に対する、思い上がりと、不信仰の何ものでもないと思います。 ですから、全てを主の手にお委ねして、今、母として出来るお子様への 援助の手(子育て)を差し伸べて行かれれば十分ではないでしょうか。 先のことは、命の創り主の計画があるのですから、信頼してお任せしていけば十分 です。私たちの子育ては、人並みに育てることではありません。創り主から賜った 命は、創り主のお考えに従って育てていくことです。人並みに育ててはいけないの です。ただ、託された命ですから、たとい貧しい家庭の中に育とうが、卑屈に育てない ことです。そのために必要なのは、親の信念です。貧しさは、不幸ではありません。 むしろ子供をたくましくします。そこに、主がおられますので、主がその子供の心を 守ってくださいます。ですから、すべてお母様のひたむきな信仰にかかって いるわけです。 テモテさんのお母様のように、お父さんがギリシャ人の異教徒であっても、 純粋な信仰を宿していました。それは、母ユニケのうちに宿っていたものが受け 継がれていったのです。ですから、自信を持って、主の前に歩んでください。 主に心が向けば、平安が返ってくるはずです。そして、自分から、家を出ることは 考えないでください。なぜなら、
この特権を失ってはいけません。 どうか、主が、あなたの心を強くされ、その信仰の故に、平安をお与え下さいます ように祈ります。以上手短に、アドバイスをさせていただきましたが、出来れば、 早いうちに、あなたの魂の見張りをしておられる、ご自分の教会の牧師にご相談 されることをお勧めします。主の平安がありますように! |
|
![]() ![]() |