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      女性の被り物について             

自分に都合の良い信仰ではなく、 全能主にとって都合のよい信仰の在り方
            



 パウロのコリント教会への勧めでは、「女性が全能主に向かって祈りをしたり、

預言をしたりする時は、頭に覆(おお)いを着けなさい」とあります。もし、それが嫌なら、

「自分自身の頭(あたま)を辱めることになり、それは髪を剃られている事と同じです」と

語っています。


 被り物に関しては、日本人にとって馴染みのないものですから、この御言葉の理解に苦しみ

ます。しかし、聖書の御言葉は、昔も今も変わりません。ですから、「当時の習慣としての

勧め」と言うだけでは済まされません。当時の人は、パウロに言われるままに、

女性が丸坊主にすることは恥ずかしいことなので、

女性たちは必ず覆(おお)いの布を被(かぶ)りました。

    
    女が祈りをしたり、預言をしたりする時、頭に被いを

    着けないなら、自分自身の頭を辱めることになります。

    というのは、髪を剃られていることと全く同じだからです。

      もし女が被いを着けないなら、髪を切ってしまいなさい。

    しかし、髪を切ったり、剃ったりすることが、女にとって

    恥ずべきことであるなら、被いを着けるべきです。

                      
�Tコリント11章5〜6節

 では、何故このような勧めをパウロはしたのでしょうか。

それは、全能主が創造の秩序を重んじる方であった為(ため)、その全能主の意向に従ったからです。

なぜなら、創造の初めは、パウロが言うように「女は男から造られ、女は男のために造られ

ました」
ところが、「男は、直接的に全能主によって創られ、男は、全能主の栄光と形を

持っていました」
ここが本来大きく違うところです。

男は全能主に似せて造られたオリジナルです。

男というのは、全ての被造物を支配していく立場にあります。

しかし、女は、男に従い属する(従属する)助け手として造られたのです。


 
 *創世記1章26〜27節

  また全能主は、「われわれの像に、われわれの似姿に、人を造ろう。

 そして、これに海の魚と空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、

 地のすべての這うものとを治めさせよう」と言われた。創造主は自分の像にアダムを創造され
た。

  *創世記2章18節
 
またヤハウェなる全能主は言われた。「アダムが一人でいるのは良くない。

 わたしは、彼のために、彼と向き合うふさわしい、助け手を造ろう。」
 

 そこで、パウロはコリント人へ「女が覆(おお)いを付けずに全能主に祈るのはふさわしいこと

でしょうか」と問いかけています。
女は、男の栄光の現れであって、女自身に栄光がある

わけではないのです。すなわち、女は栄光を持っていません。これはどういう意味かと言い

ますと、聖書に「男は、女の頭(かしら)です」とあっても、「女は、御使いの頭(かしら)です」とは

記されていません。すなわち、女は他者に対する頭(かしら)の立場にはないのです。




 *コリント11章3節


すべての女の頭(かしら)は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は全能主です。

 
 *
コリント11章7〜10節


(7節)というのは、男は、全能主の栄光と形を持っていますから、

    男は頭(あたま)に物を被る義務はありません。しかし、女は、男に属する栄光です。


(8節)というのは、男は、女から造られたのではなく、女が男から造られたのだからです。


(9節)また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

(10節)このために、女は、御使いたちのために、頭(あたま)の上に持つ権威を被う義務があります。


 だから、女は自分の栄光を現すべきではないのです。
これは、女に権威はないということです。

ですから、被り物の件は、人の為(ため)というより、全能主の意向の為(ため)です。
だから、

女は権威に服しているということを現すために、帽子をかぶるのです。


 しかも、女は「御使いたちにさえ、男に従う者であること」を表わす義務があったのです。(10節)

全能主は、創造の秩序としてそのようになさったのですから、女はそのことを自覚し、

意識するために帽子をかぶって、自分の栄光を現わさないのです。

 
しかし、女性の被(かぶ)り物については、律法に基づくものではありません。本来、聖書では

基本的に、聖徒はキリストによって律法から解放されているからです。

 
   ローマ書10章4節

   キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、

        律法を終わらせられたのです。

  (他ヘブル7:18,10:9,エペソ2:15)

ということは、律法から解放されたクリスチャンは、被り物を義務感でする必要はないのです。

すべて男も女も「キリストは自由を得させるために、私たちを解放して下さった」からです。

  
 ガラテヤ書5章1節


  キリストは自由を得させるために、私たちを解放して下さったのです。


 ですから、クリスチャンはすべてにおいて自由です。

しかし、全能主は単に御使いのことを言っているのでしょうか?

いいえ、違います。天地を造り、そこに秩序を置かれた全能主自身のために、パウロに書かせた

書物です。ならば、クリスチャンは全能主の意向を尊び、創造の秩序に基づいて、この男と女の

創造の秩序に従うべきではないでしょうか?女性は、助け手として従っていくという本能が備わって

います。女性が男の助け手として造られたのは、全能主から与えられた使命だからです。

その使命に、「はい。わかりました。」と答えていくのが私たちクリスチャン女性の生き方です。

 
 御言葉には、

 「もし、女が覆(おお)いを付けないなら、髪も切ってしまいなさい。

しかし、髪を切ったり、剃ったりするのが女にとって恥ずべき事であるなら、

覆(おお)いを付けるべきです」とまで、厳しい言われ方をしています。

一般的に、日本人のクリスチャンはこの被り物の件は避けたいところでしょう。日本の習慣には

ないからです。
しかし、クリスチャンは自分に都合の良い御言葉には心を向けますが、

「自分には出来ない」と思うと、頑(かたく)なになってそこに留まる癖があります。それも

自由かもしれません。しかし、私たちが御国に入った時に、全能主の前に顔向けできるでしょうか?

本当は、罪人が謙(へりくだ)って心を開き、「出来る、出来ない」ではなく、「やるしかない」

と心を変えて 従って行くことを、全能主は願っておられるはずです。


この下(した)手(て)に出る信仰の心こそ、救われた者の心ではないでしょうか?

私たちが頑なになって「我 」を通してはいけないのです。
この事は、全ての信仰の問題に

適用すべきです。

従うということは、実に勇気のいることです。しかし、これが本当の生きた信仰です。

   
自分に都合の良い信仰ではなく、

全能主にとって都合の良い信仰の在り方を選択して行きましょう。

 


 
 



 
 
 
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