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2024年6月9日

肉の力で仕上げるのではなく、
御霊によって歩み、御霊によって仕上げて頂く

ガラテヤ人への手紙 3:1~9


(起) ガラテヤ3章より、「肉の力で仕上げるのではなく、御霊によって歩み、御霊によって仕上げて

頂く」
という、クリスチャンの生き方を学んで行きたいと思います。

(承)さて、3節を見ると、「あなた方は、そんなに物分かりが悪いのですか。御霊で始まったあなた

方が、今になって肉の力で救いを完成するというのですか」
とあります。この「肉の力で仕上げる」とは、

どういう事でしょうか。それは、「自分の力で救いを完成する」という事です。例えば、人から指示を

受けたり、アドバイスを受けた時、そのまま聞こうとしないところが私達にはあります。「それは後で

いいでしょ」とか、「こういう方法でやった方がいいでしょう」と、自分の肉の思いを中心に物事を考え、

結局は言われた通りの事をやらずに、勝手にアレンジしてしまうのです。それは、「自分の我」を通す事で

あり、肉の力で仕上げるという事です。
私達は、「言われたことをそのまま聞いてやる」ということを、

子供の頃からして来なかったのです。むしろ、自分勝手に考えていつも自分の「我」を通してきました。

そんな生き方を、大人になった今でも続けているのです。


(転)ところが、クリスチャンにとって、このやり方は間違っている事を、パウロはガラテヤ書を通して

教えています。先程お読みした3節に、クリスチャンが信じると決断する事が出来たのは、「御霊の助けを

受けたからだ」
とあります。聖書には「聖霊による以外には、誰も『イエスは主です』と言うことは

出来ません」
とあるように、御霊の助けがあって初めて、信じるとハッキリ心を定める事が出来るのです。

どういう事かといいますと、私達が教会に来て初めて福音を聞いた時、「イエス・キリストが二千年前に

十字架にかかって、私達の罪の身代わりに死んで下さった」という話を聞いても、心が付いて行きません

でした。なぜなら、自分の心の中に、「イエス・キリストを信じれば罪が赦されて地獄に行かなくても

いいという、そんなうまい話があるだろうか」
とか、「自分の家は仏教なのに、家族の中で自分だけが

信じていいのか」
という、色々な思いが()み上がってきた(はず)です。すると、福音を聞いた時、

「その内容をそのまま信じて良いのだろうか、騙されていないだろうか」
と不安になったと思います。

しかし、そんな色々な思いが交錯していたのに、不思議に「不安」が取り除かれ、「信じます」という

気持ちを素直に表すことが出来ました。それは、まさに御霊の働きによる事で、自分の力で信じたのでは

ありません。福音を聞いた時、たとえ「信じたい」と思っても、心が付いていかなかったなら、信じるとは

言えなかったでしょう。ですから、本気で「信じる」と言えたのは、御霊の助けを受けたからです。この

ように、私達の信じる決心は、御霊によって始まったのです。それならば、「信じた後も自分の肉の力に

頼って信じて行く必要はなく、御霊に助けて頂いて、信じて行けばいい」
のではないでしょうか。しかし、

その御霊による歩みは、勝手に始まるものではありません。自分自身の意志で、「自我を横に置き、御霊

様に聞いて行こう」と、御霊に心を向けていく必要があります。何故なら、私達が肉体を持っている以上、

自分の肉の思いや魔物の声が、消え去る事はないからです。ですから、自分の「我」は、自分の横に置いて

聞いて行こうとする切り替えが必要です。
キリストを信じる時は、御霊の助けを受けて、自分の思いが横に

置かれました
。しかし、信じた後は、自分の「信仰と意志」で自分の我を横に置くのです。そうしないと、

とめどもなく「我の思い」が出てきます。しかし、たとえ自分の「我」が出て来たとしても、それを自分の

「信仰と意志」で横に置きますと祈り、「御霊様の声をそのまま聞こう」と、切り替えて行くなら、私達は、

その心の切り替えによって、素直に聞いて行く心が出てくるのです。これを普段の生活の中で常にやって

行く必要があります
例えば、叱られた時、「また怒られちゃった」とか「嫌だな」とか「言われた通り

したくない」と反発する思いを、あえて横に置き、
自分の意志で「そのまま聞こう」と、心を切り替えるの

です。
それをせずにいたら、いつまでも心の中には入ってきません。なぜなら、自分を守ろうとする

思いは、エバの時から、心に入っているからです。ですから、色々な考えを入れて聞くと、弁解も出てき

ますし、相手を裁く思いも出て来て、心で受け留める事が出来なくなります。そこで、御霊様の声を聞く

時と同じように、「怒られていることを、まずそのまま聞こう」
と祈り心を持って、気持ちを切り替えて

行くと、その瞬間に、弁解や申し開きをしようとする気持ちが退いて、言われている事を最後まで聞く

ことができるのです。すると、「あー分かった」という心が出て来て、平安が来ます。ですから、「自分で、

自我を出さないようにしよう」
という、自分の力に頼った聞き方をするのではなく、「そのまま聞こう」

という祈り心を持って、御霊の助けを受けて、やって行くのです。


(結)私達は、もう自分自身の肉に対する責任は負っていません。即ち、生まれながらの自分の

肉の力に頼って結果を出して行く義務はないのです
。ならば、何をやるにしても、自分に根拠を

置いてやるのではなく、全能主に根拠を置いて、御霊によって仕上げて頂くのです。即ち、歩いて

いる時でも、買い物をしている時でも、仕事をしている時でも、自分の考えを横に置き、「御霊様の

考えを聞いて」歩んで行くという事です。どうか、肉の力で仕上げるのではなく、御霊によって

歩み、御霊によって仕上げて頂くという生き方を、始め出そうではありませんか。


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