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2024年6月30日

第Ⅰヨハネに記されている「愛」とは

第Ⅰヨハネの手紙 4:7~21


(起) 第Ⅰヨハネの中に記されている「愛」とは、「全能主の国と全能主の義を、まず第一に求めて

行く」という信仰の心から出てくる「アガペーの愛」であることと、その純な愛の信仰が本当に

通用するのかどうかを、この地上で試して行く」
という事を学んで行きたいと思います。

(承)さて、ヨハネの手紙を読んで行きますと、至る所に「互いに愛し合いなさい」という戒めが記されて

います。このヨハネが語る愛は、全て一方通行のアガペーの愛であり、フィリオスの双方向の愛では

ありません。即ち、ギブ&テイクのように、見返りを求める愛ではなく、純粋に与える愛の行為のこと

です。このような純な愛を求められたら、損得勘定の中で生きている私達にとっては、到底「ハイ分かり

ました」とは言えないものがあります。なのに、書簡を読み進んで行くと「純な愛を表すことを、律法

として求められているようなプレッシャーを感じる」
のです。ですから、罪人の私達にとって、アガペーの

愛を律法的に求められたら、表面的な作り物の愛になってしまうでしょう。それでは偽善者になってしまう

だけです。では、ヨハネの手紙で語られている、「互いに愛し合いなさい」とは一体どういう意味なので

しょうか。それは、第Ⅰヨハネ5章1節を見ますと、「誰でもイエスがキリストであると信じる者は、

全能主から生まれた者です。また、誰でも生んで下さった全能主を愛する者は、その御方から生まれた者を

も愛します」
とあります。私達は、イエス様の救いを知った時、「人知ではとうてい計り知ることのでき

ない平安」
を覚えました。それは、救いが一方通行の愛によって与えられたものであったからです。この

愛を味わった時、自分のような罪人を救って下さったイエス様に対する感謝と、イエス様を送って下さった

全能主に対する感謝
の心が沸き起こりました。そして、その時には、私達もイエス様によって救われた

兄弟姉妹に対して、アガペーのような愛と親しみを抱きました。それは、同じ全能主の救いを知った者

同士であったからです。それは、御言葉にある通り「誰でも生んで下さった全能主を愛する者は、その

御方から生まれた者をも愛します」
と言われている通りでした。まさに、救われた者同士が感じる自然な

兄弟愛を抱いたのです。ですから、ヨハネは、この兄弟愛をお互いの間に持つべきだと勧めているのです。

きっと、その時の愛は全て一方通行の愛だったと思います。この一方通行の愛とは、決して義務感で表す愛

ではなく、また「やってもらったからやる」というお返しの愛でもありません。
どこまでも、その人自身の

純粋な気持ちから出てくる、アガペーの愛の行為です。
ということは、このアガペーの愛は、全能主に

対して持つべき自然な愛であり、また同じ救われた兄弟姉妹が持つ純な愛であったのです。


(転)では、私達がこのアガペーの愛をいつも兄弟姉妹に対して抱き、その心を表して行くためには、

どうしたらいいのでしょうか。それは、「全能主の国と全能主の義を、まず第一に求めて行く」信仰から

始まります。言い換えるならば、「自分よりも全能主を第一に愛して行く」純な信仰から、アガペーの愛が

出て来ます。なぜなら、イエス様の救いは、純なアガペーの愛から出たものですから、イエス様への信仰は

当然アガペーの愛になります。ですから、自分のことよりも全能主をまず第一に愛して行く心が沸き起る

なら、兄弟達に対してもアガペーの愛で愛して行こうという、純な愛が出て来るでしょう。この心に立つ

ならば、第Ⅰヨハネ3章12節にある「カインが自分の兄弟アベルを殺したような憎しみ」は出てこない

(はず)
です。ところが、この様な憎しみや争いは、現実的にヨハネの時代に起こっていたようです。

ヨハネは、教会に「自分の兄弟を憎んでいる人は、今なお、闇の中にいるのです」(第Ⅰヨハネ2:9)

と戒めています。また、悲しいことに、コリントの教会にも現実に分裂や争いが起こっていたのです。

何故そうなるのでしょうか?残念ながら、キリストの純な愛を知った私達でも、その時の純な経験は

一時
(いっとき)
の感情
で終わってしまっていたからです。なぜなら、「全能主の子である私達が、どのような

者になるのか、まだ明らかにされていません。それは、キリストが現れる時に明らかにされ、私達はキリ

ストと全く同じ性質の者になる
のです」(第Ⅰヨハネ3:2)
とあるように、私達がキリストと全く同じ

性質の者になる
のは再臨の時まで待たなければ成りません。ということは、たとえ信じた者であっても、

肉の心は命を閉じる時までは消えないのです。それは、信じた者が本気で信じたのかどうかを、全能主が

確認するためです
。ということは、私達が地上で生きている間は、肉の心を持ったままで、どうしても

自分の損得が自分の心の中心となり、全能主を第一にする事が難しいのです。しかし、それでも本気で

信じたものは、アガペーの愛で生きて行こうとします。ですから、この肉の現実の中にあって、()えて

自分の反逆の霊を砕き、何よりも「まず全能主を第一にした本気の信仰」に立つなら、全能主は「キリ

ストの救いを与えて良かった。この者を御国に招こう」
と言って下さるのです。何故なら、キリストの

救いは、世的な御利益(ごりやく)宗教ではなく、
罪人の魂を救う、純なアガペーの救いだからです。それならば、

キリストを利用して、世と天の両股を掛けた信仰ではなく、「今、肉体にあって生きているのは、全能主の

御子を信じる信仰によって生きている」
という生き方をして行く者が、本物の信じた者として認められるの

です。その信仰が本当に通用するのかどうかを、この地上にあって試して行こうとするのが、私たちの

生き方です。

(結)こうして、私達はまず「自分の利益」、「自分の損得」は横に置き、まず全能主の国と全能主の

義を追い求めて行くのです。即ち、全能主を第一にし、全能主に心を明け渡して、全能主に聞き従う

姿勢を持って行けば、全能主が成し遂げて下さるということです。なぜなら、自分の事に関しては、

全て全能主にお任せする事ができるからです。
私達は罪人で、いつも壁にぶち当たる者ですが、

それでも全能主は私達を見捨てず、一方通行の愛で私達を導いて下さいます。私達はその事を信仰に

よって味わって行くのです。それが私達の信仰によって生きて行く生き方であり、自分の事よりも、

相手の事を考えて行こうというアガペーの愛の生き方なのです
そして、信じた者たちがお互いに

その心を持ったなら、そこには愛の交わりが生まれてきます
。ヨハネは、私達をそこへ導くために、

この手紙を書いたのです。どうか、一人一人がこの信仰に立ち、どこまでも全能主に懸けて行く、

一本道が本当に通用するのかどうかを、この地上にあって試して行きましょう。


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