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2024年5月26日

全能主に対して生きている信仰の歩みを、
地上の現場で実践し、本物の信仰を証ししていく

ローマ人への手紙 6:11


(起) ロマ書6章11節「あなた方自身も、一方では罪に対して死んだように、他方では全能主に

対して、私たちの主イエス・キリストにあって生きている者であると、認め続けなさい」
という

御言葉から、「全能主に対して生きている信仰の歩みを、この地上の現場で実践し、本物の信仰を証し

して行く事」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ロマ書を読んで行く中で、一番学びたい事は何かと言うと、先週もお話ししましたように

「信じる信仰に至らせる」
ということです。即ち、ただ頭で「信じています」というのではなく、キリ

ストの贖いによって罪赦された事を信じた者なら、この地上にあって
「本気でキリストにあって生きて

行く生き方をする」
という事です。それは、目に見えないキリストに頼り、自分自身の生活も全てキリ

ストに懸ける
という事であり、その生き方がこの地上で通用するのかどうかを、自分自身の歩みにおいて

味わって行く事
です。

(転)では、その信仰の歩みを始め出すために、まず必要な事は何でしょうか。それは、ロマ書6章

11節の「罪に対して死んだ」という事を自覚する事です。
どういう事かと言うと、自分は罪人だと

言いながら、自分なりの正義感を働かせて弁解したり、自分を守ったりする人は、罪に対して死んで

いません
。彼らは、むしろ、自分の罪に対抗し、罪に負けないように生きて行こうとしているのです。

しかし、現実問題、私達は生まれながらに魔物を抱え込んでいる罪人で、その魔物に対抗するだけの

力もなく、自分の罪に打ち勝つ事などできません
つまり、私達は罪に対して死んでいる者です。言い

換えるなら、私達は罪人で、自分の力では生きて行けない者であって、どうにもならない罪人である

という事をまず認めるべきです
。そして、そんな罪人がどうやって生きて行くのかと言うと、キリストに

あって生きて行くのです
。即ち、「イエス・キリストが私の罪の償いをして下さったのだから、その

お方に信頼して生きて行く」
心を切り替えて行くのです。そして、信頼した以上は、どこまでも

お任せして行くのです。この信頼は、意識し続けて行く事ではなく、すべて主が成し遂げて下さるのは

当たり前の事として、いちいち気に留めて「信頼するぞ」と言い含めることもしません。むしろ「当然の

こと」として任せ切ってしまうことです。そして、主がやって下さったなら、「あぁ、良かったな」と

自然に受け留め、たとえやって下さらなかったとしても、「そのうちやって下さるだろう」と、どこま

でも信じてお任せして行くのです。それが、「他方では全能主に対して、私達の主イエス・キリストに

あって生きている者であると、認め続けなさい」
という意味です。


 
そして、12節にあるように、「死ぬべき体を罪の支配に委ねて、その情欲に従わせてはなりません。

むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身と、その手足を義の器として全能主にささげなさい」


という、次のステップへ進むのです。私達は、この御言葉を律法的に捉えてはなりません。なぜなら、

キリストを信じた者は律法から解放されているからです
。はっきり言って、情欲を抱いたことが一度も

ないと言い切れる人は、この地上に一人もいません。しかし、それによって私達は罪に定められる事は

ないのです。なぜなら、使徒13章39節にあるようにモーセの律法では義とされることの出来なかった

全ての事
について、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされるのです」
とあるからです。


 しかし、律法から解放されているからと言って、何をやってもいいという訳ではありません。むしろ、

このように書いて下さっているおかげで、私達は間違った方向に行かなくて済むのです。真理には二面性が

あるのですから、赦しと戒めの両方が必要なのです。
ですから、この御言葉は、「全能主はそのように

お考えなんだな」と前向きに受け留めて、信仰によってその方向に心を向けて行くべきです。しかも、

「罪から解放された」という時制は、アオリスト形で記されています。これは、現在の状態の如何に

よらず、解放されたという過去形です。もしこれが現在命令形だったら、私達は全能主の前に顔向け

できません
。自分はダメだと落ち込み、倒れて終わりです。しかし、アオリスト形ですから私達は倒れずに

済むのです。なぜなら、現在が如何なる者であっても、「その戒めの中にあって歩みなさい」という愛の

勧めだからです。その真理を受け止めたなら、「全能主に心を開いて従って行きます。全能主の手足と

なって、パートナーとしてやらせて下さい。何でもやります」
と前向きな気持ちが出て来るはずです。

すると、全能主は喜んで私達に声をかけて下さり、私達を用いて下さるのです。


(結)こういうわけで、私達の信仰の成長のためにまず必要な事は自分が罪に対して死んだ者

であると自覚し、自分自身を見切る事です
。そして、そんな私達をキリストによって罪から解放し、

生かして下さった全能主を信頼して生きて行く事
です。この生き方こそ、本物の信仰であり「信仰に

至らせる」という事です。どうか、「全能主に対して生きている信仰の歩みを、この地上の現場で

実践し、本物の信仰を証しして」
行こうではありませんか。


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