教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2023年3月5日

純な信仰の世界に入る決断をし、
全能主の御心の中に生きていく

第Ⅱコリントへの手紙 7:1~2


(起) 純な信仰の世界に入る決断をし、全能主の御心の中に生きて行く者となること」を学びたいと

思います。

(承)さて、第Ⅱコリント7章1節を見ますと、「私たちは、このような約束を与えられているのですから、

肉体と霊のあらゆる汚れから自分自身を清め、全能主への恐れをもって、聖潔を完成
させ続けようでは

ありませんか」とあります。このような聖句を読むと、「イエス様の救いを信じた以上、汚れのない人間に

なって行くべきだ」
と思い、本来クリスチャンは律法から解放されている筈なのに、逆に律法に縛られて

行くようになります。
しかし、パウロさんがこのような内容の手紙を書いたことには理由があります。

それは、律法は正しい人のためではなく
罪人のために定められたものですから(第Ⅰテモテ1:9~

10)、罪人に対してある程度の基準(律法)とい
ものを示さなければ「救われたのだから、何を

やってもいい」という放縦な方向に流れ、無秩序な世界にどんどん
入り込んでしまうからです。特に、

コリントという異邦人社会に住む人々は、元々律法を知らず、自由奔放に生きていた為、「全能主への

恐れ」を全くと言っていいほど持っていませんでした。ですから、たとえ信者に
なったと言っても、

身勝手な生き方をしていた者たちを皆天に上げてしまったら、御国が無秩序な世界になって
しまいます。

そこで、パウロさんはこのような手紙を書く必要があったのです。

(転)ところが、基準を示されたからといって、その通りにできるかというと、そうでもありません。

例えば、律法の
下にあったユダヤ人でさえ、律法を守ることが出来ず、律法に背いて生きて来たという

現実があります。
本来、そのような人間は裁かれて終わりです。しかし、全能主は、ご自身に逆らい

続けて来た者でさえ、何とかして救おうとされました。そのために、御自分の一人子イエス・キリストを

この地上に遣わし、人間の罪の
償いをされ、アオリストの救いを下さったのです。このアオリストの救いは

「今、現在の私たちが、どんなに罪深い
であっても、過去においてイエス様の十字架による贖いは実現

されている」
というものです。ですから、全能主あえてアオリスト形の救いを用意されたということは、

信じた者を瞬間に正しい人間に創り替えるのではなく、命
を閉じる時まで「救われた罪人」として生きて

行くように、あえて肉のままに置かれたのです。何故でしょうか。それは「全能主は、高ぶる者を退け、

へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)
事を罪人に教え、救われた者に
、へりくだりを学ばせようと

されたからです。その学びは、人間は皆罪人であることを十分に自覚させ砕かれた悔いし心へ導き

キリストの贖いしか救いがない
ことを痛感させ、キリストに頼って生きて行くしか道がないこと
思い

知らせるためでした。そして、そのへりくだりを、自らの意思によって、信仰によって働かすため

でした。そ
して、全能主は、へりくだりを学んだ者を生き返らせ、天の御国に引き上げようと考えられた

のです。
これが全能主の考えであったのです。そして、全能主はこの真理の道に導かれた者は、残りの

生涯をご自身の前に献心の心を持って生きて行くようにと願われたのです。この生き方は、「もはや

自分のために生きるのではなく、死んで甦られたイエス・キリストのために生きて行くことです。」

ですから、信じた者は、皆「へり下り」の生き方を
するのです。この生き方をしなければ、たとえ、

「罪から救われました」と言っても、天の御国の保証はありませ
ん。なぜなら、罪を悔いて自分が悪かった

と頭を下げてへりくだる心がなければ、天でまたルシファーと同じ過ち
陥ることになるからです。だから、

最低限、地上にいる間に「私は罪人の頭です。しかし、イエス様の死を通し
て贖われ、御国に入れて下さる

道を用意して下さり、本当にありがとうございます」と、
心底から頭を下げてへりくだる、その砕かれた

悔いし心が必要」なのです。それなのに、私たちは、怒られたり、否定されたり、指摘されたりすると、

「怒られたくない」「責められたくない」という思いを持ってしまうなら、全能主の意図を理
解しない

正反対の生き方をすることになります。しかし、私たちは、アオリストの救いに預かっていますから、

罪人である現実の中で、イエス様を見上げて、主に成し遂げて貰う道に歩む事が出来るのです。

ですから、自分の肉を自分で守る必要はないのです。
その事実が分かった以上、私たちはへりくだって

頭を下げて行くだけです。
そして、全能主から「これをやりなさい」と言われたら、どこまでも主に

信頼して、御心を全うするのです。たとえ意志の弱い罪人であっても、「助けて下さい」と必死になっ


その道に歩み出そうとすれば、「主が成し遂げて下さるのです。」これが、私たちの純な信仰の生き方

です。


(結) この純な信仰とは、「自分のことは考えず、ひたすら全能主の御心の為に生きる」ということです。

これは、私たち自身の定めにかかっています。魔物からいろいろな妨げの声が掛かったとしても、躊躇せず、

不安な心を振り切って、勇気を持って、純な信仰に立つのです。これをしなければ、自分の肉と救われた

霊が混在し
て、いつまでも中途半端な気持ちで生きて行くことになります。すると、いずれ患難時代で足を

すくわれてしまいます。だから、今、純な信仰で生きる世界に飛び込むことを自分が決めるのです。全能主は、

私たちが患難時代の中で、自分の命よりも、全能主の御心を第一として従う者であることを、サタンに

見せつけたいのです。
どうか、私たちの生きて行く道はここしかないということを自覚して下さい。全能主

の前にへりくだって頭を下げ、純粋に「全能主に信頼して行く」と定めるのです。これが全能主と繋がる道

ですから。どうか、「純な信仰の世界に入る決断をし、全能主の御心の中に生きて行く」と決心しましょう。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室