教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


                                                                                                                              2022年5月1日


全能主の前に常に心を開き、
本音を表して行く生き方

マルコの福音書12:41~44

(起)マルコ12章41節から記されている「やもめの献金」の記事から、全能主の前に常に

心を開き、自分自身の本音を表して、その生き方を通して行くこと」
を学んで行きたいと思います。

(承)さて、ここでは、「貧しいやもめがレプタ銅貨を2枚捧げた」ということが記されていますが

それは普通なら誰にも分からないことです。ところが、イエス様は人間を造られたお方ですから、

誰がいくら捧げたかということは当然分かるし、人の心も見ることが出来ます。そういう能力を

イエス様も全能主も持っておられたということが、この箇所を通して分かります。ということは、


全能主の前には、常に「本物」しか通用しないということです。


(転)では、私たちにとって「本物」とは一体何でしょうか。私たちの教会では、ここ最近ずっと、

「自分を見切る」、「お手上げする」ということを学んでおり、メッセージを聞いた後には、「自分

自身の肉は罪に過ぎないから、こんなものに頼っても仕方がない。全能主に頼って行けばいいのだ」

という気持ちになって、「それしかありません。見切ります」と決断し、そのように表明します。

しかし、その後、「本当に自分は決めたのかな」と不安になり、自分の決断に自信が持てないの

です。ということは、その決断は本物ではなかったということです。即ち、それは心で決めたのでは

なく、頭で決めたということです。では、心で決めるとはどういうことでしょうか。それは、心を

開いて、自分自身の本音を表すことから始まります。
イエス様を信じた時のことを思い返してみる

と、私たちは心を開き、嘘偽りなく、「信じたいから、信じます」と言った筈です。その時、自分の

心の中に、醜い思いや不安な気持ちがなかったかと言えば、それもありました。しかし、「それでも

信じたい」というのが、私たちの本音だったのです。そのようにして、
私たちが心を開いて表した

本音を、全能主は受け留めて下さいました。私たちの心の中には逆の思いもあったのですが、絶対

主はそれも全部ご存知の上で、私たちの告白を受け入れて下さったのです。
それは何故かと申しま

すと、キリストの救いはアオリスト形だからです。即ち、私たち自身の現在の状況如何に関わらず、

私たちが本音で「信じたい」と言ったことについては、全能主はその心を信じて下さるのです。

過去にどんな罪を犯したとしても、現在後ろめたい思いを持っていたとしても、そういうものがあり

ながらも信じると言った、その言葉が本物であるかどうか、全能主は分かります。
それが本音である

ならば、イエス様の十字架の贖いの故に、全能主は私たちを受け留めて下さるのです。
しかし、

この世ではそういうわけにはいきません。常に心を開き、本音で生きて行くという純粋な生き方を

始めると、この世では損をします。何故なら、
常に心を開いていたら、自分の内側にある醜い思い

も、汚い罪も、全部相手に分かってしまうからです。すると、人から裁かれ、馬鹿にされ、嫌われて

しまいます。だから、私たちは子どもの頃から心を閉じ、自分の弱さを出さないようにして、上辺

だけ取り繕って生きてきたのです。それが、要するに頭だけの世界です。
ところが、福音に接した

時、この世では通用しなかった生き方が、イエス様、全能主の前では通用することを知ったのです。

ならば、私たちは全能主の前に心を開き、心の本音を表して行って良いのではないでしょうか。

私たちの内には、
「全能主と共にありたい。全能主に用いられたい」という本音があるのです。

その本音を表した時、全能主はそれを決して軽んじられません。確かに、私たちの心の中には、

「出来ない、責任を負いたくない」という逆の思いがあることも事実です。しかし、
それ以上に

「全能主に従って行きたい」という思いが自分自身の本音
であるならば、その本音を表した時には、

信じた時と同じように、全能主は私たちを受け入れて下さいます。そして、御霊様も「それで良い」

と言って下さり、自分自身の中に平安がやってきます。それが、心で決めるということです。


(結)私たちがこの地上で生きている以上、魔物の声は無くなりません。また、卑怯な自分も無く

なりません。だから、これから後、醜い罪を何度も表してしまうかもしれません。失敗もしてしまう

かもしれません。しかし、過去も現在も未来も全部含めた私たちの罪の問題は、イエス様のアオリ

スト形の贖いによって、全て総まとめで解決されています。
だから、いくら罪を犯しても、いくら

失敗しても、それでも全能主を信頼し続けて行って良いのです。
そこに私たちの生きる場所があり

ます。ですから、私たちは、全能主に対して常に心を開き、本音で生きて行きましょう。そうすれ

ば、全能主は、「その心を持って、これからわたしのために働いてくれ」と言って下さいます。

どうか、全能主の前に常に心を開き、自分自身の本音を表して、その生き方を通して行こうでは

ありませんか。

 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室